亜人(映画)

初日に見てきました~!
感想はたいていネタバレで書いているんですけど、
今はまだ絶賛上映中なので特に冒頭に書いておきます。
この感想はネタバレを含みますので、お気をつけください。























あんまりマンガ原作の場合は原作を読まないんですが、
この作品は珍しく読みました。
原作の佐藤に綾野君が若すぎると聞いたので、
なんか心配になってしまって、思わず手を出しちゃいました。
だから一応ストーリーと世界観は分かって見たんですけど
原作の持つ核の部分がぎゅっと凝縮してある感じがしました。
人物設定とかすごく変えてあるし、
かなり主要な人物も省略してあるし、
それに伴ってストーリー展開も変わっているんですけど、
それでも私が原作を読んでワクワクした部分が
見事に映像になっているなと思いました。
原作のファンの方で、思い入れが強い人でも
これだったら納得してくれるんじゃないかなあ・・・。

私が原作を読んで一番面白いなあと感じた部分が
永井圭と佐藤の頭脳戦。
ちょっとデスノートの夜月とLを思い出しました。
でもデスノートは主人公たちが直接手を下す訳じゃないので
人の「死」を戦略として描くことに対して
マンガでもアニメでも実写でもそう生々しくはない。
だから夜月とLの頭脳戦を心おきなく楽しめる。
でも「亜人」では実際に銃で撃ったりナイフで刺したりするので
それを描くのはどうしても生々しくなる。
たぶんその生々しさはマンガやアニメ以上に実写では強調されちゃうんだと思います。
でも、それを巧くドライに処理して、話の展開をスピーディに進めて
あくまでも永井と佐藤の頭脳戦に注意が向くようにしてあったのがよかった。
もう、本当にバンバン人が死にますからね。
これが戦争ものだったら、もっと死んでいく人たちの死について考えてしまうと思う。
戦わなければいけない意味とか正義とか考えて、
殺し合っている状況そのものに意識が向いてしまうと思うんだけど、
そういう感覚を持たせる余地もないほどスピーディに場面が展開していくから
西武劇でモブの人たちが簡単に死んでいくのを見ているような、
時代劇で斬られ役の人にはなんの感傷も抱かないのと同じような、
そういう感覚で見ていました。
日本で時代劇の殺陣でこういう殺戮シーンを描くことはあっても
銃撃戦でこれほどドライな戦闘シーンを描くことはあんまりないので
そういう意味でも珍しいなあと思いました。
戦闘シーンをドライに感じさせているのは、
やはり「死なない」という設定が大きいんだと思います。
殺されているのは普通の人間たちなんですけどね。
ここはもう原作の手柄だと思うんですけど、
この設定っておもしろいですよね。
ものの考え方の根底をひっくり返してしまう。
殺してもダメ(死んだらリセットされて生き返るから)なので
とにかく眠らせるしかないから、
あの手この手でリセットを封じ込めようとするのを
次はどんな手でリセットするんだろうとじっと見入ってしまう。
そっちに意識がいっているので、
大量に殺されている人間に生々しさを感じるような余裕がない。
それに、特に映画では冒頭から永井圭に対する非人道的な人体実験が描かれる。
あの行為には強烈な嫌悪感を抱きます。
そこで自然と亜人寄りの視点を持つように作ってある。
それにクライマックスは亜人同志の戦いなので、
純粋に死なない者同士の戦いだし。

もう一つ、この映画がどこかドライな感じがするのは
永井圭のキャラクター設定にも理由があるんだろうと思います。
原作を読んだとき一番驚いたのはこの主人公の人物設定だったんですよね。
非常に合理的で、正義のためとか、人のためということが
行動原理ではないんですよね。
かえってそういう情というか人間らしい感情を欠いた人物として描かれている。
でも土壇場では情に流されて思わず非合理的な選択をしてしまうところが面白い人物なんですけど。
こういう性格の人物がマンガの主人公というのがとて興味深かったんですが
映画でも、マンガほどではないですけど、ちゃんとそういう傾向を持つ人物として造形されていて
それがとてもよかったと思います。
もし永井圭がよくあるような正義感の強い情に厚い人物だったら
もっと陳腐な映画になっていたように思います。
永井は正義の為には戦わないんですよ。
佐藤のやり方に嫌悪感は感じているけれど、
それなら自分が人間を佐藤の手から守る・・・という意識では戦っていない。
ちゃんと戸崎と取り引きして自分を守るために戦っている。
ただ映画の場合原作とは違って最後の戦いは毒ガスを巡っての争いになっているので
若干意味合いが変わってきますね。
あれだけ必死に毒ガスを取り返そうとしている
(東京に毒ガスを巻かれないようにしている)のは
やっぱり永井の持っている正義感が強く出ているということで、
そこはやっぱり映画らしい味付けなんだろうと思います。

同様に佐藤にも映画的な味付けがされています。
原作ではもっとサイコパス。
ただただ人を殺すのが楽しいという人。
佐藤の過去も映画と原作では変えてある。
映画では、日本での亜人発見第1号が佐藤であり、
20年間もあの実験施設で非人道的な人体実験を受け続けてきて
毒ガスの開発にも協力させられていた。
これだけで佐藤像がぐっと理解しやすくなりますよね。
その分原作の持つ世界観の広がり・・・という意味では
少し薄くなってしまったかなと思いますが
(佐藤のサイコパスっぷりは本当に恐ろしいので)
映画の尺に併せて物語をコンパクトのまとめるために
これはとてもいい改変だったと思います。
1回目に見たときは映画でのこの設定を知らなかったので
田中を車椅子に乗せて報道陣の前に現れるとき、
目を潤ませて人体実験の非道さを訴える場面を見て、
おお、佐藤、演技すごいな、と思ったのですが、
この設定を知って2回目を見たときは、
ここは自分自身の生々しい感情をあまり見せない佐藤が
ふっと本音を見せたのかもなあ・・・という気がしました。
あの目力は「八重の桜」の容保公を思い出しました。
強い思いを押さえ込んで、必死で耐える目。
同じ目を、佐藤が亜人1号として人体実験をされている回想シーンでもしていました。
包帯で全身ぐるぐる巻きに巻かれて血走った目だけが見えているシーン。
見開かれた目からは血の涙が流れる・・・。
このシーンは映画オリジナルのシーンで、
あまりにも痛々しいその姿に、
つい、佐藤が人を殺すことを何とも思っていなくって
大量殺戮をしようとしているのも仕方ないか・・・と思ってしまった。
ちっともしゃーなくはないんですけどね(;^ω^)
バタバタとSATも死んでるし。
ビルに飛行機突っ込ませてビル破壊しちゃったので
それだけでも死者って百人単位じゃ済まないでしょうし。
田中の車椅子を押すシーンでは、感動的な演説をぶちかましたあと、
不敵に笑う口元のアップが入るので、
あの演説は計算ずくのものであることは自明なのですが、
それでも、あの一瞬、自分が話した言葉に本心が滲んだんじゃないか
と感じさせてくれるところが、原作にない映画版斉藤の魅力だと思うんですよね。
予告でも見られる、彼のアジトで佐藤がイスに座って上を見上げて不敵に笑うシーン。
あれも予告を見ていた段階では、
おおっ、佐藤がまた何かたくらんでにんまり笑っているんだな
くらいに思っていたのですが、
これ、確か新しい仲間に田中が佐藤の過去を話した後に入るシーンだったと思うんですけど
(うろ覚えです。すみません)
その流れの中で、映画館の大きなスクリーンで見ると、
うっすらと笑う佐藤の目には怒りが滲んでいる。
回想で包帯ぐるぐる巻きにされた状態で血の涙を流しながら訴えかける目ほど
明確な怒りではなく、
瞳の奥にひっそりとかくれているような怒り。
その怒りの滲ませ具合が絶品だなあと思ったんですよね。
もう少し感情が出てしまうと佐藤じゃなくなる。
でもこれ以上薄めると怒りが感じられないという絶妙の塩梅。
基本的には映画でも佐藤はサイコパス的要因が強い人です。
単純に人を殺すことが好きなんだろうし(自分でもそう言ってますよね)
目的を達成するために人は普通できるだけ被害が少ない方法を選ぶものですが
逆に人をたくさん殺せそうな方法を好んで選ぶような人です。
そこはちゃんと変えていない。
でも、過去の因縁のエピソードを少し付け加えて人間的な感情をほんの少し出したことで
とても綾野くんと親和性が高くなったような気がします。
たぶん、人間的な感情が欠片もない原作寄りの佐藤でも
綾野君はちゃんと演じきっただろうけど、
私は映画版の佐藤が好きだったので、原作から改変されてよかったなあと思いました。
昔、一時期は、人間らしい感情を持たない役多かったですよね。
「GANTZ2」の黒服星人とか「クローズZERO2」の漆原とか。
まあ、黒服星人に至っては人間ですらなかったんだけど。
だから案外人間性の欠片もない殺人鬼もはまるんですよね。
その後の作品の「るろうに剣心」なんかだとちゃんと感情を持った人間として戦っている。
佐藤は黒服星人と外印の中間になるんじゃないかなあ。
私は人間性を持たない悪人を演じる綾野くんも好きなのですが
今回の佐藤は人間性の欠片もない・・・というよりは、
核に人間らしい感情も持っている映画版でよかったと思います。

そういえば、過去作を一生懸命追いかけて見ていたころ、
そろそろ綾野君に勝たせてあげてよってよく思ってたなあ・・・。
黒服星人にしろ外印にしろ漆原にしろ
途中まではやたらと強いのに、悪役、敵役で、ラスボスでもないので
結構あっさり形成逆転されて 負けちゃうんですよね。
「ガッチャマン」の時は味方の方だから、今度は勝てるよね・・・
って思ったら、意外とやられるシーンばっかりで。
今回、SAT戦なんかで無敵の佐藤を見ていて、
そうそう、こういうアクションものは見たかったのよ!
と嬉しくなりました。
最終的に主人公に負けるとはいえ、小気味いい戦いっぷり!
もともと素早い動きが得意だけれど、
その早さ故に肉弾戦になるとちょっと軽くなりがちなところがあったんだけど
銃撃戦なら機敏な動きがフルに生かせるんですね!
刀を使った殺陣もすごく巧いんだけど、
ガンアクションもここまでできるとは!
物語の構造上、佐藤のアクションが中盤までを引っ張っていくことになるので
本当に綾野くんのファンにとってはたまらない一作になりました。

去年の今頃・・・かな。
番宣とかでメディアに出てくる時の姿がシルバーの髪にシャープな雰囲気。
シルバーと言っても完全な銀じゃなくて黒みの強い銀で、
うわあかっこいい! 
今何の撮影しているんだろう・・・って思っていたんですが、
この作品だったんですね。
実際に映画でみると思い描いていたイメージとは全く違う役だったんですけど。
あの時銀だ! と思ったほど、スクリーンの中の佐藤は銀髪じゃなく
ただ黒くない、映り方によっては白髪交じりに見える・・・
というくらいの色味でした。
佐藤の年齢っていくつの設定なのか知らないんですけど
(パンフレット買ってないんだけど、もしかして書いてあるのかな)
見かけの年齢よりも白髪が多いとすれば、
それはもしかしたら過去の過酷な人体実験のせいなのかなあって。
そう思うとなんか切ないですね。
それとも、リセットをすると言うことは
そのたびにほんの少しずつ肉体に流れた時間を巻き戻すことだって考えたら、
佐藤はあまりに多く回数をリセットして生きてきたことによって
実年齢よりも若い肉体で生きているのかもしれない。
リセットは死んだ時の状態で再生される。
例えば冒頭の永井くんは人体実験を受けていた時、
肉体を損壊されその数値を記録されている時間分はなかったことになって、
肉体が傷つけられる前の状態で再生していましたよね。
実験されている時間が1時間だとすれば
1時間前の肉体に再生される・・・。
それがつもりにつもれば実年齢と肉体年齢に差が生まれてしまう可能性もあるわけですよね。
佐藤は捕まっていた20年間、数え切れないほど殺されているでしょうし、
自分でもリセット能力をフルに活かして戦うので
他の亜人よりはずっと死んでますよね。
その積もり積もったタイムラグを表現するのがあの髪色なのかなあ・・・
と思ったり。

映画を見ていて思ったんですけど、
亜人いっぱい出てきますけど、佐藤ほど自分でリセットする人いないですよね。
途中で仲間に加わった新人君たちは自分でリセットするより
仲間に撃ってもらっていました。
下村は自分でリセットかけるシーンはなかったような・・・。
やられて死んでリセットというのはありましたが。
永井君の最初の自力リセットもそうでしたが、
やっぱり自分で死ぬというのは怖いものです。
いくら生き返ると分かっていても。
田中ですら、仲間がいるときは仲間に撃ってもらっていましたし。
でも、佐藤は本当にものすごい回数、自分でリセットするんです。
まさに「亜人であることを楽しんで」いるかのように。
だからたぶん、他の人では気にならないほどのタイムラグだけれど
佐藤だけには顕著に表れているんじゃないかなあ・・・。

佐藤が戦っているときの音楽もかっこよかったですねえ。
3・2・1・・・と共に生き返るシーンはゾクゾクしました。
主題歌が始まるタイミングもよかったなあ。
ちょっとだけ本編にかぶるんですよね。
もうちょっと主題歌流してもよかったんじゃないかなあという気もしますが
切り替わった音楽も世界観にあっていてよかった。
なんにしろ、悪役が魅力的な作品は面白くなる。
佐藤は作品を魅力的にする力のある悪役(敵役)だったと思います。

2回目は4DXで見たんですが、
4DXではバラの香りがしないんですね・・・残念
生まれて初めての4DX体験。
私はとっても恐がりで、テーマパークにあるこういうライド系のアトラクションも
(それ本体は動かないけど映像と座席の揺れで体感させるタイプのもの)
とってもびびってしまうので今まで避けてたんですよねえ・・・。
私が見ようとする映画で4DXに対応している作品があまりなかったのもあるけど。
一回KINGSGLAIVEが4Dになっていて、
よっぽど初4D体験してみようかと思ったんですが、
見に行けないまま・・・。
でも、今回は応援している役者さんが出る映画で4Dになるのってそうそうないし
日曜は映画の日で安い! 
4DX分を追加してもそれほど高くない!
というわけで、思い切って主人と二人で行って見ました。
(ちなみに初日の土曜は次男と行きました)
本編映像前に流れる4DX紹介映像(カーチェイスのやつ)が始まって
これはやばい! と思いました。
思っていた以上に座席の揺れと映像のシンクロ感がすごくって
こわくてこわくて・・・。
これは最後まで見られへんかも・・・とちょっと泣きそうになりました。
ちなみに、隣に座っていたカップルは、彼女のほうが最初の10分くらいで出て行っちゃいました。
映画が始まってからも冒頭は永井圭の周りをぐーっとカメラが移動するんですけど
その揺れが気持ち悪くって車酔いするう・・・と冷や汗が・・・・
4DXはアクション時の振動というよりも、
カメラの移動とともに座席が動く際の生々しい移動感覚がすごいな
というのが一番の感想です。
だから永井のIBMの視点で階段をぐんぐん上るシーンとかの臨場感がすごい。
でも、この映画の場合はだったのかもしれませんが
カメラそのものが移動するシーンがそれほど多くはなかったので
車酔いする~怖い~という感覚はすぐになくなりました。
怖いという感覚がなくなると、もう、あとは効果を単純に楽しんでいました。
アクションの時に座席が揺れたり、どん! と背中に振動がくるのは当たり前として
おおっ、このシーンで水しぶきか!
ほほう、雪をこのシーンで使うのかあ!!
雪の効果は主人から「こういうのがあるで」と聞いていたのですが、
冬の設定の場面はないし、きっと見られないだろうなあ・・・と思っていたら
予想外の場所で2度ほど使われました。
1度目は雪を他のものに見立てての使用だったのですが
2度目はなるほどの場面で、なんかすごく納得。
水しぶきも水そのものというよりも、
血しぶきとして使われていましたね。
スモークとか耳元で風がぴゅっと吹いたりすると臨場感がすごくあって楽しかった。
ただ・・・やっぱり、次も積極的に4DXを見たいか
と問われたらちょっと微妙かな。
私が映画に求めているのはこういう楽しさじゃない気がする。
臨場感は増すけど、効果に気をとられて作品への没入感が薄れるというか・・・。
でも「亜人」という作品が4DXと相性がいいというのは絶対言えると思います。
IMAXへの対応といい、日本の作品でこういう展開をする作品って決して多くないので
そこに果敢に挑んだって言うのはよかったかなあって思います。
邦画が苦手としているジャンルに真正面からチャレンジして
それがしっかり実を結んだ作品になっていると思いました。
今回返す返すも残念だったのは
MX4Dじゃなかったので佐藤のバラの香りが体験できなかったこと。
今まで4Dの様式が2種類あることもなんとなくしか知らなくて
いざ行こうとしたら行きやすい映画館は全部4DXだったんですよね・・・。
ううう・・・残念・・・。

今回嬉しかったのは、玉山くんがドンピシャではまっていたこと。
玉山君って端正な顔立ちをしているので、
こういうお堅い、ドSタイプの役を振られることが多いのだけど
私はどちらかというと3枚目寄りの役の方が好きなんですよね。
特にTVではご本人の性格が何となく滲んじゃってドSになりきれないところがあるから
中途半端な感じになっちゃうことが多いような気がして・・・。
今まで唯一このドSタイプで巧くはまった! って思えたのは
「ハゲタカ」の劉でした。
その劉以来、久々にこのタイプの役で、ぶれずにはまったなあ・・・と
嬉しくなりました。
案外、映画ではこのタイプの役でもはまるのかもしれないなあ。
こういうタイプの役の方が容姿も引き立ちますしね。
原作では下村との関係ももっと描いているので
二人の関係がわかりやすいというか、
守る人、守られる人の関係がもっと理解しやすいのですが
映画では徹底的に説明が省かれていますから
玉山君と川栄ちゃんの佇まいで二人の特殊な関係を伝えるしかないのですが
ちゃんと説得力をもって成立していたと思います。
宣伝番組の「亜人カフェ」でも言っていたみたいに
玉山くんがほぼ真下に川栄ちゃんを見下ろすという絵が面白かった。
それから、血だらけになって倒れている下村を
介抱したりすることなく、いたわる言葉をかけるでもなく
見下ろしたまま「俺を守れ」と言うシーンも
二人の関係性を表していてよかった。
下村を自分を守る捨て駒としか思ってないわけじゃないよなあ・・・
と感じさせる部分もあって、でも、Sな部分は貫いたままで。
玉山君に関してはアクションはあんまりなかったんだけど
それでもちょっとはあって、
でも、人間だから、人間らしいアクションになっていて
それもよかった。かっこよかった。
綾野君と玉山君がそれぞれ個性を十二分に活かして活躍しているという点でも
私にとってはとってもお得な見応えのある映画でした。
でもきっと役者目当てではなくても楽しめる作品だと思います。






posted by HaHa at 02:31Comment(0)映画

機動戦士ガンダム THE ORIGIN 激突ルウム会戦

「機動戦士GUMDAM オリジンⅤ」を見てきました。
公開初日に行ったので、ライブビューイングの舞台挨拶付き。
ガンダム舞台挨拶.JPG
この中の人たちを見てきました。
皆さんがあいさつ済んで舞台を降りられた後、司会者が
「フォトセッションです。今からカメラ出していいのでSNSで拡散してください」
と言われるので、なんのこっちゃ・・・って思ったら、
スクリーンにバン!とこれが出て笑ってしまった。
もう、ね、ティーンエイジャーだった自分に教えてあげたい。
大人になったらガンダムの新作映画(本当はオリジナルDVDだけど)が映画館で見られて
古谷さんと古川さんの舞台挨拶が見られるよって。
思えばガンダムが私のオタク人生の始まりだったなあ。
アムロが大好きで、古谷さんが大好きで、
一生懸命アニメ雑誌を読んで情報漁って。
でも映画のパートⅢをTVで放送したのを見てドはまりしたので
どんどん情報が少なくなっていく時期だったんですよね。
高校生くらいの時にZが放送されたんだけど
自分にとってのガンダムはどうしてもファーストガンダムだったのでなじめず
そのまま何となくアニメからもフェードアウトして。
あの頃はガンダムって今ほど市民権を得ていなくって、
というか当たり前なんだけど、とうに流行を過ぎた過去の作品でしかなかった。
もちろんいろいろ形を変えながら新シリーズは作り続けられていたし、
なぜかモビルスーツを3頭身にしたSDガンダムとか
ゲームとかは流行ったりしていたんだけど
今ほど確固としたジャンルにはなっていなかった。
いつからなんだろうなあ・・・こんな風に一つのジャンルとしてガンダムが語られるようになったのは・・・。
等身大のガンダムが作られて話題になったり、
ガンダムカフェができたり・・・。
絶対リアルタイムで知らんよね? という世代でも
モビルスーツという作中の造語が通じる時代がやってくるとは・・・。
かくいううちの息子どもも、もちろんリアル世代じゃありません。
うちにあったPS2のガンダムゲームではまってガンダムを知った世代。
映画館には次男と一緒に行ったんだけど
(Ⅳまで一緒に来ていた長男は彼女と一緒に見に行くと言って独立)
往年のオタクたちに混じって親子連れもちらほら。
ふふっ、うちとおんなじだ。
ただほぼお父さんと息子っていう組み合わせだけどね。
とにかく女性率は低いですねえ・・・。
私が見に行く映画でピカイチで低い。
大抵の映画は一人でも行けるんだけど、
ガンダムはちょっと独特の雰囲気があるので
次男にはもうちょっと一緒に行って欲しいなあ。

舞台挨拶は結構まじめな感じで進みました。
司会の方も「主役」の池田秀一さん中心に話を回しておられたのですが
あがっておられたのか池田秀一さんが一番話しにくそうにされていたのが意外でした。
素の声もあんまりシャアっぽくなくて、
だからこそそのギャップがなんかとても楽しかった。
古谷さんと仲良さげにやりとりされていたのもおもしろかったです。
古谷さんと古川さんは中学時代の私のアイドルのような存在だったので
30数年を経て、お二人が並んで舞台に立たれている様子を
スクリーンでとはいえ、こうやって見ることができるのが
本当に不思議で不思議で・・・。
お二人がほかの声優仲間と組まれて結成していたスラップスティックっていうバンド大好きでした。
こんな風にお二人を見られるなんていい時代になったなあと思います。
昔はライブビューイングなんてなかったもんね。
古谷さんも古川さんも役の台詞を披露してくださってサービス精神旺盛。
古谷さんがやたらと今回はわき役ですがぜひ主役を(つまり本編を)やりたい
って言ってました。
それは安彦さんも何度も話されていましたね。
今回お一人だけお顔を知らなかった銀河万丈さん。
字面は印象的なお名前なのでとてもよく見ている気がするんですけど。
銀河さんはとてもダンディで素敵な方でした。
お話される声もとても素敵。
ギレンは声を張って演説するシーンが多いのですが
あまり張らない声で穏やかにお話しされていると
低音がとても心地よく響くんですよね。
4人とも何度も、こんな風にみんな生き残って
ガンダムで初めて出会ってから38年後にまた一緒に舞台に立てたことが嬉しい、
というようなことをおっしゃっていました。
もちろん声優として第一線で38年間続けてこられたこともそうでしょうし、
ガンダムの他の声優さん、たくさん亡くなっていますからね・・・。
ナレーターの永井一郎さんを始め、セイラさんもブライトさんももう亡くなってしまいました。
それだけの時間が経ってしまったんですねえ。
安彦さんは、10年ほど前に一度講演会に行ったことがあるんです。
その時の印象があったので、ずいぶん時がたったんだなあと思いました。
あの時次男はまだ幼児だったんですよねえ・・・。
途中でちょっとぐずるわ、寝たと思ったら大きな寝息を立て始めるわ・・・で
かなり冷や冷やしながらお話を聞いたことを覚えています。
ほんと、申し訳なかった・・・。
でもその次男が10年後、とても楽しみにこうやって映画を見に来ているのですから
時間が経つってすごいなあと思います。
あの時は安彦さん、オリジンのマンガ連載が始まったばっかりだったくらいかな。
それがこんな風に映画になるなんて誰も思いもしなかった頃でした。
時間やいろいろな制約に追われて制作されたTVシリーズでの思い出を
いろいろと語ってくださいました。
今回続編である本編の制作を強く望まれているのも、
あの頃やり残したことがあるからなのかなあ・・・。

私はオリジンは全部劇場で見ているのですが、
正直、最初はちょっと冷めた気分もありました。
それはマンガを読んだ時もそうだったのですが、
どうしてもガンダムは富野さんの作品だという思いがあったものですから、
安彦さんが制作の大きな部分を担っていたとはいえ、
富野さん以外の人が書くものはいわゆる本編じゃないという気がしていたからです。
アニメのように大勢で作品を作るものの作者は誰という問題は難しいのだと思いますが、
なんとなく感覚的に富野さんの作品だと思っていて。
特に完全オリジナルであるシャアとセイラの過去については、
巧く作られた二次創作のような感じで見てしまっていました。
プロが作ったクオリティの高い二次創作。
でもⅢくらいから、そんなことどうでもいいくらい
作品としておもしろくなってきたんですよね。
特にⅣは圧倒的に武力に差があるのに戦争へと突き進んでいくそのメカニズムが
とてもリアルでした。
国が体制が大きく動いていく中で、人々がどう生き死んでいくかが
生き生きと描かれていた。
Ⅳを見ているときは、大河ドラマを見ているみたいだなあと思っていました。
観客は(特にこの映画を見に来ている客は)Ⅰ年戦争の出来事が頭に入っているわけです。
大河ドラマで歴史という動かせない点があるのと同じように、
ガンダムの世界の中でも動かせない歴史があって、
でもそこに至るまでのドラマはいかようにも作れる。
人気作品の器を借りてマニア向けに作ったというよりは、
表にでている事実に至るまでのドラマをオリジナルで作り出した、
そういうところまで持ち上げるクオリティで作られていました。
それが今回の「Ⅴ」ではより明確になっていた。
描かれている年代がいよいよ宇宙世紀0079に入り、
各キャラクターが私たちの知っている姿に近づき、
私たちが知っているシーンに直結するような場面も増えてきました。
だからこそ切なさが倍増するシーンもたくさん・・・。
例えば、ザビ家で数少ない人間らしい感情を持つドズルは
コロニーの中の人間を皆殺しにして、
それをそのまま地球に落とすという作戦の恐ろしさに気づいています。
作戦の実行を拒否したランバ・ラルに怒り狂うのは
ランバ・ラルの言葉に正当性を感じているからです。
それでも「一つのコロニーの犠牲によって戦争を早く終わらせることができれば
もっと多くの人間の命を救うことができる」という方便を信じて実行する。
けれども作戦は失敗し、最終的には全人類の人口の半分を殺してなお
戦争は終わらない。
我が子、ミネバを得たばかりの彼は、
ミネバの寝顔を見ながら号泣します。
「たった一人のミネバでこれほどかわいいのに、
俺は何億ものミネバを殺した」と。
けれども、その悲しみを
「やつらは弱かったからミネバを守れなかったのだ。
自分は強くなってミネバを守ってみせる」
という理論に転換してしまう。
そしてその理論に邁進したドズルは、戦争継続に難色を示す幹部を
「ここでやめたらお前たちも地球連邦軍に責任を追及されるだろう」と脅しつけ、
勝てる見込みの少ない戦争にますますのめり込んでいく。
人間くさいからこそ陥っていく闇。
彼の最後を知っているからこそ、彼の選択が切なく悲しい。
ギレンの血も涙もない作戦を、ドズルの錯誤した情熱が支えて
ジオンの狂気の戦争が続いていく。
戦争が起きるメカニズムをまざまざ見ているかのようでした。

一方市井の人たちは、戦争が始まった、大変だ!といいながらも
普通の日常を続けている。
今回ちょぴっとあったアムロやカイの場面もそんな感じ。
戦争が始まったと言いながらも彼らの日常は続いていて、
立ち入り禁止区域に探検に行き、こっぴどく叱られる。
そして、今回急に出てきたユウキとファン・リーという
TVシリーズ第1回のアムロとフラウ・ボウを思わせる少年少女。
彼らは第1回のアムロとフラウと同じように敵の攻撃を逃れるために
シェルターに避難します。
ここでユウキとファン・リーのやりとりが丁寧に丁寧に描かれます。
アムロとフラウ・ボウよりもずっと親密に描かれた二人。
でも彼らが住んでいるのはコロニー落としの標的にされたコロニーで
シェルターに避難しようがどこに逃れようが助からないと言うことを
観客は知っている。
彼らにも日常があって、生活があって、思いがあって、
でも、戦争という圧倒的に大きな力で踏みつぶされる。
「他人事」から「当事者」への変換はいとも簡単。
指導者の思いつき一つ・・・。
ユウキとファン・リーの描き方は
本編で主人公のアムロもまたこういう市井の人間の一人だったという事実を
より強く印象づけてくれます。
そして、現実でも戦争が起こるというのは、こういうことなのだろうなあと思います。

思えばガンダムってもともと、ロボットアニメに戦争を持ち込んだっていうことが
大きな特徴の一つでした。
主人公が正義なのではなく、主人公が属する組織もまた正義ではない。
もちろん相手方も。
戦争に大義はあっても正義なんてないのですから。
ガンダムはそれを丁寧に描いたことが画期的だとされたアニメでした。
富野さんはいくつものガンダムの続編を作っていますが、
ガンダムのそういうある意味リアルな部分よりも、
戦うことの中でいきる意味を見つけていく少年、
人とのコミュニケーションのありかた、
他者と自分の関係・・・というような観念的な部分を
どんどん膨らませて行ったような気がします。
ものすごく感覚的な感想ですが・・・。
でも、安彦さんは戦争そのもの、そこに醜くうごめく人間のエゴのようなものを
より事細かに詰めていったような気がします。
それが人間ドラマとしてとても面白いものになっている。
もともとあまりにもオリジナルのガンダムが好きすぎるので
いくら安彦さんとはいえ、
いくら今の技術で映像が比べものにならないくらいきれいになるとは言え、
本編を焼き直ししないで欲しいなあ・・・。
いくら随所に拙い部分が見えるとは言っても
私にとってのガンダムは昔のガンダムだなあ・・・って思っていたのですが
「Ⅴ」を見て、これは是非本編も作って欲しいと思いました。

安彦さんはアニメーターだけど、
宮崎さんほど完璧を求めないタイプの監督さんみたいです。
ご本人もマンガが描けなくなっても
この作品のスタッフは優秀な人がそろっていますから
アニメは作れますって言ってました。
それならば、作って欲しいなあ。
そんでもって、やっぱりCGを駆使したメカの表現はすごいです。
このクオリティでもって、ア・バウア・クー戦とか見てみたい。
とりあえずはⅥは来年5月に公開だそうで、
そこまでは確実に見られる見たいです。
今のテンションを忘れないようにして、絶対見るぞ!!

そう言えば舞台挨拶の最後はギレンの
「ジーク・ジオン」
をみんなで言って終わったんですよね。
生で(といってもライブビューイングだけど)でギレンの演説が聞けて
上映前にかなりテンションがあがりました。
銀河さんありがとうございました!



posted by HaHa at 02:22Comment(0)映画

「武曲」その2

「武曲」の続きです

3回目見たときが一番ジンと来てしみじみとよい映画だなあと思ったのだけれど、
その一番の要因は光邑和尚の存在でした。
光邑和尚の深い愛情と適切な導きがあればこそ、
研吾は立ち直ることができた。
原作では研吾がもう少ししっかりしていて、
自分の意識、意図で動いているので、
映画よりも少し引いた位置に描かれている感じがしますが、
映画ではとにかく研吾がボロボロなので
前半は光邑和尚の作為が物語をひっぱります。
融の剣道の才能を見いだすのも光邑和尚ですし、
融を研吾のもとに使いに出すのも光邑和尚。
原作でも光邑和尚の使いで融は研吾の家を訪れますが、
融が光邑和尚から手渡された手紙は映画のように白紙ではなく
剣道部の昇段試験の申込用紙。
この段階で原作の研吾はまた酒浸りの生活に戻りつつあり、
剣道部の練習にも顔を出さなくなっていますが、
まだコーチは続けている。
融とも剣道部で面識はある。
(ただし融が剣道部に入部した時くらいから休み始めたので
融が本格的に剣道を始めたことは知らない)
光邑和尚が他の部員ではなく、あえて融を研吾のもとに行かせたのは、
もちろん研吾を再び道場に呼び出すという意図はあったでしょうが
それほど強いものではない。
けれども映画では、融が届けたのは白紙の手紙。
この段階で融と研吾は一面識もありません。
ただ、自分が使っていた黒檀の木刀を見知らぬ高校生が持っていたというだけで
研吾は遠ざかっていた剣道場にやってきます。
融が残していった黒檀の木刀を光邑和尚に返すためだけに。
光邑和尚はかけだったんだろうな。
この餌に研吾が食いついてくるかどうか。
もっと言えば、きっと融の剣を初めて見た時から、
研吾にこの少年と向き合わせたいという思いがあったのだと思います。
そして、研吾は餌に食いついた。
すでに剣の道は捨て去ったように見えても、
思い入れのある黒檀の木刀を捨て置くことはできなかった。
その研吾の心の奥にくすぶっている剣道への思いに火を灯すように
光邑和尚は研吾と融を対決させます。
融に、今の研吾から1本取る秘訣を伝授して。
でも、きっと、光邑和尚が描いたのはここまでで、
光邑和尚は二人があんな危険な決闘をするとは思っていなかったのではないかな。
だって若い命を危険にさらしてまで、
何かを成し遂げようとする人には思えないもの。
ただ、そこからが光邑和尚の本領発揮。
父親を殺そうと病院を訪れた研吾を押さえつけ、そのまま寺に拉致。
まだ傷が癒えぬ融と対面させ、己がしたこととしっかり向き合わせる。
おそらくこの時初めて自分と向き合う準備ができたんだよね、研吾は。
禅の修行を通してアルコールを絶たせ、とことん自分と向き合わせる。
そして父の葬儀を済ませて、アルコール依存も脱し、落ち着いてきた頃を見計らって
父親の手紙を渡す。
光邑和尚は、研吾の実の父がなかなか立ち得なかった位置から
研吾を見守り、必要なポイントで的確な救いの手をさしのべ、
時には厳しく叱責し、時には大きな懐で包み込んでやる、
そういう絶対的は父的存在として存在していて、
それがなんかすごく、染みました。


光邑和尚の柄本さんはすごく納得の配役だったんだけど、
なんでこの役にこの役者さん? と思ったのが
カズノ役の前田敦子さん。
前半であっという間に出番が終わっちゃうんだもん、びっくりしました。
原作では行きずりの女(研吾は名前すらちゃんと覚えていない)として描かれていて
それに比べれば一応つきあっている体で描かれていますから
ましといえばましなんでしょうけど、
この役に前田敦子はもったいないやろ・・・と正直思いました。
というより、この役、いるん? と思ってしまうくらい。
一生懸命考えたカズノのこの映画における役割は、
研吾ときさらぎの女将美津子をつなぐこと。
原作では研吾が自分できさらぎにたどり着きますが、
(カズノとはきさらぎで偶然居合わせる)
映画ではカズノが女将と研吾をつないでいるっぽい。
そのほかに無理に意味を見いだすとすれば、
研吾にとって女の存在は、救いにはならないということを
暗に示しているのかなあという気がします。
同じように酒に溺れ人生から逃げようとしていた「そこのみにて光輝く」の達夫は
一人の女性との出会いによって、人として生きる気力を取り戻していきます。
けれども、研吾にとっては、女はそういう存在になりえないということなのでしょう。
酒と同じ。
父から、剣道から、なにより自分から目を逸らすための手段。
また、カズノの存在が父にとってのきさらぎの女将と同じと考えると、
カズノの愛情が修羅の世界をさまよう研吾の救いにならないのと同じように
父にとっても、きさらぎの女将は一時のやすらぎにはなりえたでしょうが
究極的な救いにはならなかったのではないかと思えます。
この物語はあくまでも男達の物語で、
そこに女の入る余地はないということなのかな。
一方で、研吾は女将を通して、
自分の知らない弱さをもった一人の人間としての父を知っていきますから
その際に、研吾自身に全く女っ気がないよりは
自分の弱さを紛らわすための慰めとしての女が側にいたほうが
父の思いを理解しやすいということもあるでしょう。
研吾に女っ気が全くなかったとしたら、
母親の立場に立ってしまって、女将の存在を否定するだけで終わる可能性もありますから。
そう考えていくと、確かに意味がある役だとは思いますが、
それでもあれだけのシーンで、前田敦子はもったいないなあ・・・。

この映画は本当に男達のドラマを描いているので
女性の登場シーンは少ないんですよね。
カズノと女将と母親・・・くらいかな。
母親に関してはほぼ原作通り。
父の言うことに逆らえない、
父のやり方がおかしいと思っても意見できない
古風な堪え忍ぶ女として描かれている。
もうすでに亡くなっている人物だし、
登場シーンも研吾の記憶の中の姿だけなので
尚更そう感じるのだと思う。
原作も同じようなものだけど、
母の兄弟がちらちらと描かれるので
映画よりは実在の人物感があるかな。
父親の手紙の中で触れられているので
一応夫婦間の愛情はあったのだと思うけれど、
高校時代の研吾が母親に
「父さん、殺してもいいかな」
と尋ねたとき、明確に止めず、叱りもしないで
黙って目を反らしたことを思うと、
やはり母親側にはなんらかのしこりがあったように思います。
もしかしたら、愛人の存在に気づいていたのかもしれない。
一方、愛人であるきさらぎのママは
はっきりと将造に対する愛情を感じさせる。
監督の舞台挨拶の時に、
砂浜で将造の横にいる女性がなぜ母親ではなかったのか、と質問された方がいましたが
その質問した人の気持ちはなんとなく分かる。
女性の思いとしては、妻である母親が沈んでしまって
愛人であるきさらぎのママがなんとなく救いを感じさせる存在になっているのが
残念なような、寂しいような・・・。
ただ、物語の構造を考えたときに、
そこは愛人でなければいけなかったという監督の答えもよく分かる。
ことに映画では、きさらぎのママの描写がぐっと引き立たせてあるから尚更。

きさらぎのママの一番大切な役割は、研吾に研吾の知らない父親の一面を伝えること。
つまり、「将造は本当は斬られたかった、でもどうしてもそれができないことに悩んでいた」
という言葉を研吾に伝えることだと思うんです。
原作では、融との決闘後、アルコール中毒の地獄から抜け出し、
その先の境地に進むための何かを、融の剣の中に見いだした頃、
そういうもろもろの思いや迷いを確認するかのように
きさらぎのママの元を尋ねます。
だからこそ、ママの言葉に衝撃を受けこそすれ、
その言葉をきちんと受け止め前に進もうとする。
けれども映画ではまだ迷いの真っ最中に研吾はこの言葉をママから聞くことになる。

映画での研吾の心情を順に追っていくと、
まず、原作以上に酒に溺れ女に溺れ、現実逃避を繰り返す日常があって、
おそらくこの間は竹刀にも触れていないのではないかという感じ。
それが光邑和尚の策略に導かれ久々に道場に顔を出し、竹刀を握る。
それまで胸の奥でくすぶっていたけれども、
見ないようにしていた剣道への思いが動き出す。
きさらぎで酒を浴びるように飲んでいると、
溢れるように過去の記憶がよみがえってくる。
将造との最後の対決、幼い頃の厳しい練習、厳しすぎる父の指導、
いつまでも父に認められない不満、そして、あの事件の後のこと・・・。
忘れたい思い出に突き動かされるように、
研吾は父の真剣を手に取り、手当たり次第切りつける。
父のいた座敷を、父の賞状の数々を、そして父と稽古をし、父を斬った庭を。
まるでなにもかもを否定してしまうように・・・。
鴨居に跳ね返された刀が額に当たり、顔面が血だらけになって
その痛みで逆上し、より激しく暴れ回る様子がとても痛々しい。
そして研吾は酒で朦朧とした頭で、高校時代の自分と母の幻覚を見る。
自分が「父を殺していいか」と母に尋ね
母が目をそらした時の幻覚を。
おそらく研吾は、高校時代にははかりかねた母親の思いを
この時ふっとつかんだように感じたのではないかな。
きさらぎの女将が父の愛人ではなかったかと思い始めていたからこそ、
母を裏切り続けていた父を、母が許していなかったのではないかと。
あの無言の反応は、肯定だったのではないかと。
この想像は研吾の心を軽くしたのだろうと思います。
決闘の末に父の脳天をかち割ってしまった自分。
父を寝たきりの植物人間にしてしまった自分。
そのことを肯定も否定もできなかったのが、
もしかしたら母は自分がしたことを許してくれるのではないかと思えた。
だからこそ、久しぶりに母の墓参りに行こうという気にもなったし、
光邑和尚にあれほど言われてものらりくらりとかわしていた酒も
やめようという気になった。
けれども、そんな研吾に外からいろいろと揺さぶりがかかります。
母親の墓参りをしているときに知り合いの老婆から心ない言葉をかけられる。
(原作ではその老婆は菩提寺の大黒とはっきり記されているんだけど
映画ではそういう説明は一切ないので谷田部家の事情を知る老婆という認識でいいのかなと思う)
仕事に出ると、融が尋ねてきて
「お父さん、どうやって殺したんですか?」
と挑発的なことを言ってくる。
でもこうした揺さぶりは、研吾の心にさざ波をたてたとは言え、
これくらいではまだ覆えされたりはしない。
きさらぎでも他の客が帰ってしまうまでの時間、
ずっとウーロン茶を飲んでいるのがその証拠。
ただ、きさらぎに行って、どうしても女将の口から父のことを聞きたいと思ったのだとすると
やはり動揺はあったのかな・・・という気はします。
そんな研吾が再び酒に逃げ込まざるを得なくなったのは、
女将の言葉にひどく動揺したから。
せっかく収まりどころを見つけた心が、収まりどころをなくして
再び暴れ出してしまった。
研吾は無意識のうちに女将から父親の悪口を聞きたかったのかもしれない。
父は殺されてしかるべき人間だったと、
生きた人間の口からはっきり聞いて、自分のしたことを肯定したかったのだと思う。
けれども女将は父の生き方を否定せず、
そこはかとない愛情を滲ませながら父を語る。
そして、おそらくもっとも研吾を動揺させたのは、
過去に女将に対して父が言った言葉。
「斬られようと思っても、それがどうしてもできない」
この言葉は唐突で、ちょっと文脈から理解するには難しい。
原作にはこの言葉にもう少し説明がつくんですよね。
研吾がスランプに陥ってしまった融に説明する形で。
斬ろう斬ろうとしているといずれは破綻する。
相手に斬られることを100パーセント受け入れた上で対峙することが
本当の意味で相手の上位に立つことであり、
こういう心境でこられると相手はもう打つ手がないのだ、と。
おそらく父親が女将に対して
「斬られようと思ってもなかなかそれができない」
と語った時には、この意味で語ったのだと思う。
自分の剣がもう一段上の高みに上る為にはこの心境が必要だと。
原作の研吾と同じように、映画の研吾もまたこの理念は知っているのだと思います。
父親ほど実感を持って切実に考えていたかは別にして。
ただ、映画の研吾が女将からこの言葉を聞いたとき、
彼の頭に浮かんだのは、この剣道の理念というより、
父が自分に自ら斬られたのではないかという疑念。
自分が父を斬ったのではなく、
父が自分に斬られようとした。
原作ではこの女将との対話のシーンはもっとずっとあとで、
融との決闘やその後の断酒などもろもろの事がすべて済んだ段階。
だからすっきりした頭で、気持ちの整理もほぼついている状態で聞いているので
衝撃を受けこそすれ、父はあの決闘で剣道家として一段上ったのではないかと
冷静に分析をしているんだけれど、
映画ではクライマックス前のキーになる場面に入れ込まれているので
研吾の衝撃度が全く違ってしまう。
この段階では研吾は父もまた迷いの中にいたことには思い至っておらず、
ましてや自分に斬られようとして対決を望んだというのは全くの想定外。
そして、何より父がそのような状態であったと考えると、
せっかく見つけた心の納めどころがなくなってしまう。
斬られてしかるべき父だからこそ、あの決闘の結末を仕方なかったこととして
心の整理をつけようとしていたのに、
その大義名分がなくなってしまう。
自分が父を斬ったのではなく、父によって斬らされたのか?
自分は結局憎むべき父親の手の上で転がされただけではなかったか。
再び不安定になった心に、女将は
「お父さんが恋しい?」
と問いかける。
「分からないのね、憎いのか好きなのか」
ここまで研吾は迷いに迷ってきた。
あの時父の誘いに乗って対決したことは正しかったのか、間違っていたのか。
年老いて、しかも酩酊していた父に対して
本気で木刀で挑んだことは正しかったのか、間違っていたのか。
あの時、父を殺さなくてよかったのか、殺してしまった方がよかったのか・・・。
でもそれはいわゆる一般的な倫理観と父に対する憎しみとの間での葛藤だと思っていたのに、
女将は「憎いのか、好きなのか」と言った。
おそらく研吾にとって「自分が父を好き」というのは
思いもしなかった感情なのではないかな。
憎みこそすれ、父が恋しいとは思いもしなかったのに、
女将のこの言葉は研吾の心を深く揺さぶった。
落ち着きかけていた心が再び大きく揺れ始め、
結局逃げるようにきさらぎを後にして
違う店で今まで以上に、酒を飲んでしまう。
自転車も乗れないほど酩酊した頭によみがえってくるのは、
父との立ち会いの前のやりとり。
剣道を嗜むものが昇段試験の際暗記を強いられる文言。
剣を学ぶ意味と理念を父の前でこれ見よがしに唱えて見せて
「その結果がこれか?」
と、酒に溺れる父に冷たく言い放つ研吾。
「お前なんかいつでも殺せるぞ」
と、すごみをきかせて答える父親。
そこには、父子の情なんて一筋もなかったはずだった。

融が研吾に命がけの対決を挑んでくるのは、まさにこのタイミング。
研吾がこの無謀な申し出を受けたのは、
断るのが面倒になって、こんな初心者の若造さっさとぶちのめして帰らせよう
という程度のものだったのでしょうが、
融の天性の才能と、死を憧れてしまっている若者らしい無謀さからくりだされる剣は
研吾を本気に変えていく。
剣道の試合と言うよりは命のやりとりを前提とした対決は、
研吾の眠っていた剣士魂を燃え上がらせる。
始めは「殺してやるから黙ってろ」と相手を煽った言葉が
やがて「早く殺してくれよ」に変わっていく。
融との決闘で期せずして研吾はあの時の父の立場に立ったのだと思う。
「殺してくれ」と願う。
それも、大切な剣道を通して殺してくれと願う。
それは年長者としてあまりにも甘えた考えだとは思うんだけど、
けれども、「殺してくれ」は、言い換えれば「斬られよう」とすること。
研吾は融との対決の中で、今まで立ち得なかった境地で剣を振るうことができた。
父もまた研吾との戦いの中で同じような境地を味わったのではないか。
嵐の中で、叩きつけるような激しい雨の中で(しかも黒い!)、
端から見れば狂気としか見えない戦いを、
時に口元に笑みを浮かべながら続ける二人の映像描写は
本当にすさまじいものでした。
原作では二人の対決シーンは嵐の中ではない。
もちろん雨も降っていないし、夜でもない。
二人の対決の異様さを、二人が体感しているものの非日常性を
際だたせるためにあえて用意された場面設定。
その中で、わずかな台詞と圧倒的な動きでこの決闘シーンを描き出した。
まさに、監督がおっしゃっていた「肉体を使った表現」でした。

研吾は融との対決の中で、融の中に父の姿を見る。
その父の姿は、研吾に打たれることを受け入れ悟ったかのような姿。
研吾が体感としてそのような父の心境に立ったからこそ
見ることができた幻だったのかもしれない。
幻の父が促すままに、研吾は父の喉元に突きを入れる。
ここは原作も同じ。
ただ、私が映画見たときも、原作を読んだ時も、
分かるようで分からなかった箇所でもあります。
父との対決を精算するために、融との対決が必要だったのはわかる。
融との対決を通じて研吾が何かをつかみ、感じたこともわかる。
でも、その結果として、父の、融ののどに突きを入れる必要性はあったのか。
父との対決の時と違って木刀ではなく竹刀を選んだのだから
ちゃんと危険性は認識しているはず。
例え竹刀であっても、急所であるのどに対する攻撃である突きは防具をつけてはいても危険な技で
高校の剣道部のコーチをしていたことでもあるし、
研吾も十分その危険性は承知していたはず・・・。
もちろん酩酊状態の研吾はあくまでも父を突いた意識しかないのだけれど、
それでもその父に対する攻撃が突きである必要があったのか・・・。
面ではいけなかったのか・・・。
(研吾が再び面を狙っていれば、手にしていたのは竹刀だったのだから
今度は命に関わるような事態にはなっていなかったはず)
その後、融が非常に危険な目にあっていること、
映画では研吾は融の手当や救助をした様子がないこと、
(原作では応急処置をし救急車を呼び病院に付き添っている)
その後も融に謝ることもない。
防具をつけない真剣勝負を望んだのは融の方であり、
死に対するあこがれを持っていた彼にとって
実際に死に直面することが必要だったのかもしれないけれど
研吾の物語から見たときに、融に対するこの仕打ちはひどすぎるのではないかという思いがどうしても残る。
ただ、この物語の構造として、研吾はどうしても父を殺さねばならなかったんだろうなあ。
父をはっきりと自分の意志で殺して、
その事実と向き合い、受け入れることでしか
研吾のこれからの人生は始まらなかったのだなあ。
父と息子の関係を描く物語、
ことに父殺しを真正面から描こうとしてこの作品で
あの突きはやはりなくてはならないものだったんだろうなあ。

死を望み、もしくは死を求め研吾と剣を交えた二人の男の内、
一人は死に、一人は生き残った。
そして同じように死を望んで対決に挑んだ研吾自身は
融に斬られることで生かされた。
もしくは言い方を変えれば、
過去の父親との対決は一方が植物人間となり
一方は社会的に生きることを捨ててしまった。
つまりどちらも生きられなかった戦いで、
融との戦いは互いが互いを生かした戦いであった
と言えるかもしれない。

初めて見たときは、とにかくここからが長く感じました。
クライマックスが融との対決で、
そこから何かつかむことで研吾が生活を立て直していくんじゃないかと
勝手に思っていたせいもあるんですけど。
けれども実はここからが長かった。
父を殺そうと立ち寄った病院で研吾は、光邑和尚の弟子に取り押さえられ
そのまま寺に連れて行かれます。
そして無理矢理傷ついた融と対面させられる。
融の傷から目を背けようとする研吾。
それを許さない和尚。
結局ここからの研吾の苦しみは、
今まで父のせいにして直面してこなかった自分自身との戦い。
父に逃げることもできず、酒に逃げることも許されず、
ただただ自分の罪深さと、依存症になっていたアルコールを断たれた苦しみに耐えるしかない。
本来、和尚はいつでもこの手を使えたはずです。
もっと早い段階で研吾を力付くで寺につれてきてアルコールを断たせ
自分と向き合う時間を強制的につくることはできたはず。
でもそれをしなかったのは、単に力付くで矯正しても
それでは本当の解決にはならないということが和尚にはわかっていたのだと思う。

印象にとても強く残っているのは、
融と向き合う時の研吾の目がきらきらと光っていたこと。
態度としてはみっともないほどおびえ、その場から逃げようとして押さえ込まれて
融が殊勝に謝っているのに
大の大人である研吾がじたばたと逃げようとしている場面なんですけど
そのおびえた研吾の目がとにかくきらきらしてて
とても意外な感じがしたのです。
ただ、ここまでの研吾が人間としてのまっとうな感覚が死んでいて
その内面を表して目が死んだようになっていたのが、
ここできちんと人としての感覚を取り戻して
だからこそ自らがしでかした結果(融の負傷)から逃げようとし、
生に執着が生まれたからこそ目に光が宿ったと考えると
あのきらきらもちゃんと意図してきらきらさせてあるのかなあという気もします。
ただ、何回も見たのにどのシーンの目が死んでいて、どのシーンからきらきらするのかきちんと検証できていないので、
最初の方からきらきらしていたのに気づいていなかっただけかもしれません。

お堂で一人苦しむ研吾に襲いかかるような仏像の数々のイメージが怖い。
仏像のものいわぬ目は世間の目であり、研吾自身の良心の目なのかもしれません。
いくつもの目に見張られて、怯えて正視することもできない研吾が切ない。
けれども、寺での修行の日々の中、
父が亡くなり、その四十九日も済んだ頃、
ようやく研吾は本来の落ち着きを取り戻す。
長い長いトンネルの終わり・・・。
融を突き倒したとき、幻の父から光が天に昇っていく様を幻視したその光が
今度は寺の庭から一つ天に昇っていく。
融との決闘の時、研吾は自分の心に巣くう父の幻を殺した。
そしてその後、実際に訪れた父の死を
ようやく客観的にとらえ受け入れることができるようになったということなのだと思う。
父と息子の関係を主題においたこの物語では、
息子がいかに父を乗り越えるかということが丁寧に描かれている。
息子は父を否定し乗り越え、そして父を乗り越えた自分を受け入れることで
一つの通過儀礼としての父殺しの儀式が完成するのだろうなあ。
実際に命をかけて勝負して、自分の手で父の命を縮めるようなハードな経験をすることはそうそうないとしても
多かれ少なかれ心の中で父親を否定しそれを乗り越えていく息子は多いんだろうなと思う。
もちろん、父の、もしくは息子の性格、性質も大きく関係するのだろうけど。

光邑和尚から研吾に父の手紙が手渡されるのは
父の四十九日が済んでから。
光邑和尚は研吾が落ち着くのを待っていたんでしょうね。
原作ではもっと早い段階で渡していますから、
手紙に書かれた内容を研吾が受け入れることができず、
びりびりに破いてしまいます。
その後その手紙は光邑和尚の手で継ぎ合わされ、
再び手渡されるのですが・・・。
初めて映画でこの手紙の内容を知ったとき、
とても驚きました。
まず、現代の手紙にしては珍しい達筆な筆で書かれていたこととその表現の美しさ。
だって映画ではお父さんの台詞ってほとんど
「殺せ!」
なんですよ。
同じシーンの回想が多いせいなんですけどね。
「殺せ」か「そんなもんか!」くらいしかイメージがなくて
なんかおっかないおじさんとしか思えなかったのに、
その人がこれほど美しい手紙を書く人だったとは!
そしてその内容も愛情にあふれていて、
なんだ、ちゃんと愛情ある普通の人なんやん・・・と安心したものです。
「静子と私の大事な大事な息子でございます」
という表現にジンときたりして・・・。
原作でもこの文面はほぼそのままでした。
ただ多少映画のほうがはしょってあります。
ただ、大きく違うのは原作の手紙では、将造さんは自分が負けるときだけでなく、
自分が勝った時のことも書き記しているんですよね。
自分が残るようであればこの手紙は捨て置きくださいと。
映画ではこの部分を省略してしまっているので、
残るのは研吾だから、その後のことをよろしく頼むというだけの内容になっている。
他のどの箇所よりも、この部分の省略は大きい。
「殺されてこそ本望、憎まれても本望」
「己の愚かさこそを 斬られてしまいたく」
と書いているのに、それでも自分が勝つ可能性を考えているのが原作の将造。
でも映画の将造はその可能性に言及しないことで、
自分が負けるということを手紙を書いた時点で受け入れているように取れる。
息子の「鏡にも誇りの片鱗にも成れなかった」自分が
息子に斬られることで息子の成長の踏み台になる。
そういう覚悟をしっかりと感じさせるのは映画の方かなあという気がします。
そしてこの手紙は、研吾がきさらぎの女将から聞かされ、ひどく動揺してしまった
「斬られたいのにそれができない」
という言葉の、一つのアンサーになっていますよね。
息子の為に「斬られること」を覚悟し、実行することができた。
それはストレートに強い父親の愛情を感じさせる。
父の幻影と向き合い、自分と向き合い、そこから逃げることをやめた研吾だからこそ
この父の手紙を、父の歪んだ愛情を受け止められた。
ここでようやく研吾の物語に一区切りがつく。

一方、融の方はというと、
原作よりも分量は減らされていますが、
きちんと融の心情を追えるくらい融の物語も描かれています。
原作は完全に半分半分で、研吾と融はダブル主人公なのですが
映画では研吾が主役になっている分、ちょっと比重が軽い。
前半は融が物語を引っ張っていくんですけどね。
融がラップのリリックに夢中な今時の高校生で、
ひょんなことから剣道に出会い、才能を見出されて、のめり込むまでは
どちらかというと融の物語が中心に描かれる。
融役の村上虹郎くんがいいんですよねえ・・・。
無鉄砲な感じ、投げやりな感じ、純粋な感じ、未熟な感じ、
可能性が全身からにじみ出ているような
あの世代特有のゆらぎがきちんとスクリーンに映しだされていました。
生意気そうな瞳がきらきらと輝くあの感じは、
確かに一定の年齢を経ると出せなくなるんだろうなあ。
研吾が生きながらに死んでいるような状態で、
人間としての生気をあまり感じさせないのと対比して
「生」の輝きが感じられるきらきらとした瞳。
生の輝きのど真ん中にいる融は死に魅せられ、
半分死んでいるような生き方をしている研吾は死から必死に目を背けている。
研吾の苦悩があれほどくっきりと浮かび上がったのは
融がきちんと光輝いていたからだと思うんですよね。
物怖じせずに、融の無鉄砲さそのままに
スクリーンの中に存在し輝いてくれたてくれた虹郎くんがいればこそ、
この作品の陰影がきちんと伝わったんだと思います。

原作では融は研吾との決闘の後、それでもちゃんと剣道を続けています。
昇段試験に挑む中で、融は剣道そのものに魅せられ、
剣道を通じて自分と向き合っていくのですが、
映画ではその部分がありません。
死にあこがれ、自分から防具なしの試合を挑んだ融が、
研吾との決闘の後、付き物が落ちたようになってしまいます。
決闘後、寺で研吾と初めて対面したとき、
融が研吾に謝るというのは原作にもあります。
でも、原作では先に研吾が土下座して融に謝っているんですよね。
自分が教え子である融を危険にさらしたことを恥じて。
融に罵倒され、殴られ、蹴られるのを覚悟の上で頭を下げている。
融はその研吾の背中に、研吾の弱さ、脆さを見て取って、
研吾の願うように研吾に怒りをぶつけるのは格好悪いという
子供らしいプライドで、自分も床に手をついて研吾に頭を下げる。
でも、映画では研吾は謝ってませんもんね。
ただただ自分の罪(融の傷)から目を背けて恥ずかしげもなく怯えている。
その研吾に対して粛々と頭を下げる融がなんか大人すぎて、
うまく表現できないんだけど、ちょっと切ない。
おそらく融は気が付いたのではないのかな。
自分を無軌道に駆り立てていた死への憧れが、
死が自分のすぐそばにあると感じる瞬間の高揚感が
実は強烈な恐怖感と裏腹のものであることを。
自分の力ではどうすることもできない巨大な力によって
簡単に命が奪われてしまうような圧倒的な恐怖から逃れるために
自分から死に近づくことで、
その恐怖に蓋をしていたことを・・・。
そうしたある意味自分勝手なチキンレースに研吾を巻き込んで
こんな大騒動にしてしまったことに対してあの場で謝ったのだろうけど、
研吾の苦悩が延々と描かれているのに対して、
融の意識の転換は描かれないので、
一気に大人になったように感じてしまう。
一気に研吾を飛び越えてしまったかのような・・・。
映画は研吾の物語がメインとなって描かれるので仕方ないと言えば仕方ないのだけれど。

ただ、本当の意味で融が自分の憧れていたもの(もしくはおそれていたもの)を自覚するのは
研吾が木刀を持って訪ねて来てからなのかな。
考えてみれば、死に近づいてその恐怖を楽しむチキンレースをしたいのなら
海に勝手に飛び込んでいればいいわけです。
でも融はずっと海をおそれていた。
海岸までは来るけれど、海には入れないという描写が前半にありました。
そう言えば、融が素振りをするのは海辺が多かったなあ。
あれは死の恐怖そのものである海に対して剣を振っていたのかもしれないな。
自分はお前なんか怖くはないぞ、と。
非力な少年がナイフを手にした高揚感のようなものだったのかもしれません。
自分だけじゃ対峙できないけれど、
ナイフという武器で武装したら強くなれた気がするのと同じで、
海に入ることはできないのに、
木刀を振ることで海への恐怖感を克服できる・・・というような。
でも、実際に研吾と対峙し、負けて、
死への憧れという憑き物が落ちてしまった。
死に近づいた時に感じる高揚感だけでは
相手に(死に)勝てないことに気づいてしまったから。
けれども嵐の中のあの決闘で、融は剣道そのものの面白味にも目覚めた。
もしくは、そこに至るまでの素振りや練習で気づき初めていたんだろうけど、
研吾との真剣なやりとりの中で「死に近づく高揚感」以外の何かを
感じていたんだと思う。
だからこそ、研吾が置いていった木刀をそのままにしてはおけなかった。
夜、再び砂浜にやってきて、けれど木刀を手に取らず
海に走っていって飛び込む。
死に憧れ、死を、海をおそれていた自分を乗り越えた瞬間。
ここから融にとって本当の意味での剣道が始まるのだろうな。

融に木刀を渡しに来た研吾、いいですよね。
アルコール依存から脱して、父を見送って、弱い自分を受け入れて、
ようやく年相応の落ち着きを取り戻した大人として、
剣道の先達として、
剣道から離れてしまった融を迎えに来た。
研吾という人は本来はこういう落ち着いた佇まいの
静謐な空気を纏った人なんだなあ・・・。
酒に酔っていない、普段の姿の研吾って
ここで初めて登場するんですもんね。
そう言えば剣道から離れてしまった研吾を迎えにきたのも、
この黒壇の木刀を手にした融でした。
今度は研吾が黒壇の木刀を手に融を迎えに来たんですね。
そして、坂の上と下という構図は、
嵐の中決闘を申し込みに来た時の構図に似てる。
でも、今度は死ぬための戦いではなくて、
剣の中で生きるための戦いを申し込みに来た。

小説で巧みな表現によって描かれる剣道の試合中の攻防や心理は
映画では映像でしか見せることができません。
映像は一目見ればどう動いたかはわかるんだけど、
素人がぼーっと見てても、今の技のなにがすごかったのか、
なにを狙っての動きだったのか、わかりません。
それどころか、今の一本が入ったのかどうかさえも判定できません。
解説がつくから、なんとなく分かったつもりで見ていられるんだけど。
だから最後の剣道のシーンは原作を読んでから見た方が
ずっといろんなことを考えられた場面でした。
小説の方で試合中の駆け引きや心の動きをつかんだ後、
このシーンを見たら、めまぐるしく立ち位置を変え
剣先だけを付き合わして奇声を発している場面も、
きっと二人の心の中ではこういうやりとりがされているんだろうなあと
想像することができましたから。
そういう意味ではこの映画は最後の最後でようやく本格的な剣道が描かれた
といっても過言ではないはず・・・。
少しばかりの練習シーンはありましたが、本格的な試合はここだけ。
しかも、主人公がきちんと防具をつけるのもここだけだという・・・。
道場に入り防具をつけ、蹲踞し試合を始めるまでが
丁寧にたっぷりと時間をかけて丁寧に描かれます。
その一つ一つの所作の美しいこと!
予告にも使われた手ぬぐいを顔の前にばんっと広げて
鋭い目だけが見えるシーンはその美しさにはっとしました。
今までのどのシーンの目とも明らかに違う、
狂気の混じらない、まっすぐな、戦う眼。
もう完全に立ちなおったという事とともに、
研吾という人物がもともと優れた剣士であることを感じさせる眼。
互いに間をはかり何回か出方を探るようなやりとりの後、
融がゆっくりと下段に構え、研吾は上段に構えを移します。
嵐の決闘の際、融が研吾の胴に一本入れたのもこの下段、
研吾が融をこの試合に誘うときに言った言葉も
「お前の下段がもう一度見たい」でした。
一瞬の間の後、互いに繰り出された一手・・・というところで映画は終わります。
途中の壮絶さを吹き飛ばすような、すがすがしい終わり方でした。

綾野君の演技に関しては、もう、すごいとしか言いようがない。
大友監督が、役者は自身の身体を通して役を表現するのだから
身体能力の高さは俳優の重要な資質・・・みたいなことを
「るろうに剣心」の時に言っていたと思いますが、
ことあるごとにこの言葉って思い出すんですよね。
この映画もまさに綾野君の身体能力が遺憾なく発揮された作品だったと思います。
身体能力が試される映画って、アクションものであることが多いじゃないですか。
でもいわゆるアクションものではなく、これだけ肉体を使って表現する映画も
珍しいなあと思いました。
もちろん剣道の映画であるし、身体を使うのは当然なんだけど、
前述したように、実はきちんとした剣道のシーンって最後だけなんですよね。
高校の体育館で研吾が大暴れするシーンや
嵐の中の決闘シーンは、アクションシーンらしいといえばアクションらしいシーンなんですが
それ以外の場面、たとえば、一人で家の中で刀を振り回してみたり
酩酊して自転車に乗れずずっこけたり、
酒がきれて暴れたり・・・というシーンは
本当に全身を使って研吾の感情を表現していて、
これだけ感情を言葉や表情だけでなく
全身で表現する役って珍しい気がするんです。
綾野君がどちらかというと繊細なタイプの役者さんなので
こういう役が少なかったから余計そう感じてしまうのかな。
アクションシーンがメインの作品の場合も、
動きにあまり感情を乗せないタイプの役が多かったですよね。
クローズⅡの漆原とかGANTZの黒服星人とか。
感情をあまり乗せないことで異質感を出すようなパターンが多かった気がする。
そういう意味で今までとはまたちょっと違った作品だったなあという印象。
じっくりと心情を追うタイプの作品でありながら、
とても動きの多い作品という意味で。
身体はとても乱暴に大きく動いているのに
心はとても繊細に揺れている・・・
その繊細さは綾野君ならではだったのではないかなあと思います。
こういうタイプの作品、ありそうでなかった気がする。
見るまでは正直取っつきにくいかな、好きな要素は少ないかな・・・
と思っていたのですが、なんのなんの、好きな作品の一つになりました。

この映画のパンフレットにはありがたいことに完成台本が載っていて、
原作も手元にあるので、そういう意味ではとても感想を書く環境が整っていて・・・。
私は記憶力が皆無なので、映画館で見ただけでは細かい部分までは覚えてられません。
だから大抵の映画の感想はだいたいの流れの中で
アバウトな印象だけで一気に書いちゃうことが多いんだけど、
完成台本があるのでかなり確認できちゃうんですよね。
そうなると細かいところまで書きたくなって・・・。
書いていると、そういやここ原作ではどうなってたんだっけ・・・
と原作を読み直してみたり・・・。
そんなこんなでゆっくりじっくり書いていたら、
書きながら「わかったつもりになっていて、実はわかっていなかった」部分がいっぱい出てきて、
そのたびに完成台本と原作を行きつ戻りつしながら考えて。
ということを繰り返していたら、こんなに時間がかかってしまった・・・。
これでも週末ごとにずっと書いていたんですけど・・・。
お盆休みもそれなりにがんばったんですけど・・・。
でもまあ、これで一区切り。
自分の中でもこの作品がようやく収まるところに収まったって感じ。

次は「亜人」ですね。
マンガ原作の場合は読まないことが多いんですけど
「亜人」はなんか気になって10巻まで読んでみました。
これまた非常にアクションが楽しみな作品ですね。
綾野くんが出演する映画でIMAXや4DXに展開する作品って
そう多くはないので、そういう意味でも楽しみ。
4DXデビューしてみるかな。