武曲

ずいぶん感想が遅くなってしまいましたが、
新たに上映される映画館もあるので、いいかな。
結局、3回劇場で見ました。
1回目は初日に。
2回目はその1週間後、監督が京都に舞台挨拶に来られるというので。
3回目は7月1日の映画の日に。
綾野くんの出演作、結構気に入った作品は2回見に行ったりしてるんだけど
3回というのはなかったんじゃないのかな。
というか、綾野君の作品じゃなくても3回見に行くことはあんまりないんですよね。
「ハゲタカ」と「この世界の片隅に」くらいじゃなかったっけ?
何回でも見たい! という作品はほかにもあったんだけど、
実際に行こうとしたときにちょうどいい上映時間がなかったり、
用事が重なっていたり、
映画館が遠くて挫折したり・・・。
綾野君の場合は出演作が立て込んでいることが多かったので、
次、次、次・・・と見ていくうちに上映が終わってたってことも・・・。
去年の「怒り」なんかはもう一回映画館で見たいと思ったもんな・・・。
あと一回見ようかなと思えたときに、
それを後押しする要因があることも大きい。
「ハゲタカ」の時は、まだパートをしていたので、
平日に1日か2日休みがあって、その時たまたま水曜レディースデーに休みで。
せっかくだから映画行きたいなあ・・・って思った時に、
行きつけの映画館で、一番座席が座り心地がよくってゴージャスなスクリーンで
「ハゲタカ」が上映されると知って思い切って行ったんだよなあ・・・。
もう公開からずいぶん日にちがたっていて、
3人で見たのがすごく印象的でした。
「この世界の片隅に」の時は近くの映画館でずいぶん長く上映されていたんだけど
もういよいよ終わるなあという頃、
ULTIRAで最後に1回だけ上映します! という言葉につられて見に行ったんだった。
で、今回は滅多にない映画の日が土曜日という幸運。
でも、もっと幸運だったのは、京都ではまだこの時に上映してたってこと。
大阪でいけそうな範囲の映画館はその前の週で最終だったんだけど、
京都はこの週が最終で。
それで思い切って行ってみたんですよねえ。

でも、なんとなく2回目と3回目の間には自分の中で大きな境がある・・・みたいです。
大抵の映画は2回見るとなんかつかめる・・・というか、
ちょっと(もちろん全部とは言えません)自分の中で消化されるんですよね。
初見の時に見落としていたことに気づいたり、
1回目よりもストーリーの構成に目がいったり、
細かい演技の意味する物に気づくことができたり。
とくに好きな俳優さんを目当てに見に行く作品は、
事前に原作を読んだり、宣伝でたくさんインタビューを目にしていたり、で
事前情報をかなり仕入れた上で見に行きますから、
大抵は大まかな話の展開や人物の情報、見所のシーンなんかを
わかった上で見に行ってるので、
ある意味、初見の段階で2回目に見るのに近い状態で見ています。
原作の台詞や設定が変えられていたり、
時には途中の展開や結末、もしくは描こうとしている世界観そのものが
原作とは違っている場合もありますが、
それは初見の段階で、あ、ここが違う、こう変わってる、と気づけます。
そこで生まれた疑問や解釈があるときは
2回目を見に行くと、ああそういうことか・・・と納得できることが多い。
だから、2回で止まっちゃうことが多いんですよね。
でも、今回「武曲」では珍しく原作を読まなかったので、
初見が全くの初見、物語との最初の出会いだったんです。
もちろんインタビューは目についたものは読んでいたので、
研吾はどうもお父さんに何かしたらしい、とか、
融は過去に死にかけたことがあって、死にあこがれる青年らしい、とか
クライマックスでは二人が嵐の中壮絶な果たし合いをするらしい・・・
くらいの知識はあったんですけど、
あそこまで壮絶な話だとは思っていなかったので、
正直、1回目を見たときには辛い話だなあという印象しかなくて
この作品をどう自分の中で消化したらいいんだろうと、
ちょっと呆然としました。
Twitterで見かけた言葉に「修羅」というキーワードがあって、
その言葉が本当にしっくりきました。
「修羅」の世界にとらわれてしまった人間の苦しみ、もがき。
てっきり、勝手にクライマックスの果たし合いの後、
研吾は変わる、救われると思っていたので、
そこからの苦しみが長かったのが大きいんだと思う。
というか、そこからが本当に見ているのが辛くなるほどの足掻きがあった。
物語の9割は救われない研吾の苦悩が描かれているので
この人はどうやったら救われるのだろうかと
見ながらそればかり考えていました。
例えば、自堕落な生活におぼれているというと
「そこのみにて輝く」の達夫もそうでしたが、
達夫の場合は、もっと内省的というか、
自分一人で墜ちている、他者を拒んでいるだけという感じだったのに対して
研吾のそれは恐ろしいほど他者にストレートに怒りを向ける。
身体を鍛えた猛者が自暴自棄になり、
感情のままに暴れ回ると、こんなに危険な存在になるんだ・・・
同じ役者さんが同じような「墜ちている」人間を演じているのに、
全く別物としか感じさせないのはすごいなあと思いました。
暴れて悪態ついて、発散している部分もあるはずなのに
達夫よりもずっとずっと深い闇に落ち込んでしまっている感じがする。
初回に見た時の印象はこの程度で、
それはたぶん、原作者さんが言うところの、感情のグラデーションが
見えていなかったからなんだと思うんですよね。
だからひたすらもがき苦しむ研吾があまりにも執拗に描かれると感じてしまった。

そこからあわてて原作を読みました。
もともと映画を見たら読もうと買ってあったので手元にはあったんです。
原作を読んだら、びっくり。
とりあえず原作の開始時点の研吾はちゃんとしている。
正気か狂気かと言えば、ちゃんと正気の域で生活している。
読み進めると、過去にアルコール依存症になるくらいまで生活が崩壊していたこともわかるんですけど、
とりあえず、小説のスタート時期での研吾は社会人としてちゃんと生きている。
仕事こそ映画と同じ警備員だけど、
お酒は断っているし、剣道部のコーチとして練習も見ている。
融の才能を見いだすのも研吾。
寝たきりの植物状態になった父親の面倒をきちんとみる孝行息子として
周りからは見られている。
でも、中盤でそれが一気に崩れる。
やめていたお酒に手を出すと、そこからは一気に墜ちていく。
仕事に行かなくなり、酒がやめられなくなり、
剣道部に行くこともしなくなってしまう・・・。
それでも、映画の研吾ほど墜ちていないのは
まだちゃんとどこかで自分を客観的に見つめる目を持っていて
これではいけないともがいているから。
それはやはり、小説という表現形式ということが大きいんだろうな。
原作は1章ごとに研吾と融それぞれの視点で物語が語られ進んでいく。
1人称の視点で語られる文章は、そのままその人物の心に寄り添うので
読者は研吾の、融の心を通して物語世界を見ていくことになる。
ということは、研吾の心の動きや揺れが言葉で説明されていくので
それを語る語り手としての研吾が客観的な視点をもっているように見えるというのは必然。
とは言え、本当に文章に力がある作家さんなので、
文章がすばらしいんですよね。
研吾がアルコール依存症に逆戻りして、アルコールを手放せなくなるくだりでは
饒舌に語りながら、アルコールに犯されて正常ではなくなっていく研吾の精神を
見事に文章に反映していく。
これではいけない、酒をやめなければ・・・ともがきながらも
やすやすと酒におぼれ、酩酊した精神で見た世界の歪みを
的確に表現していく。
本当にこの辺り読んでいるとき、依存症にはまってしまった気分に
とっぷりと陥ってしまいましたもん。
(すぐに影響されるとも言えるんですけど(;^ω^))
映画よりも、原作のほうがゆるやかだけどより複雑に
研吾が揺れ動いている。
いったんは社会復帰できているところからスタートして、
ふたたびアルコール依存の自暴自棄の生活に陥り
融との決闘を経て、立ち直るのももっと複雑な奇跡を描く。
それを脚本の高田さんは映像として語るためにすごくシンプルな形にしたんだなあ。
一番象徴的なのは、父親からの手紙。
原作を読んで驚いたのは、この手紙が研吾の心を救うものにはなっていないこと。
映画ではこの手紙が研吾の感情を描く上での一つのピークとして使われています。
ある意味ではとてもベタなんですけどね。
手紙によって初めて父親の真意を知って、立ち直るというのは。
この映画の感想を探していたときに、この部分に反発している人もいたなあ。
ただ、丁寧に映像で表現されたものを見ていった時に、
十分に研吾が自分と向き合えるようになった時を見計らって、
光邑先生が研吾にこの手紙を見せることで、研吾が最終的に救済される
というのはきちんと映画として、物語として成立していると思うんです。
言葉で事細かに心情を説明されない映像作品だからこそ、
ここで、ここまで一番真意が見えなかった父親の思いを
言葉として提示することの意味は大きい。
でも、言葉で研吾の揺れる思いを表現している小説では
父の手紙は映画ほど劇的な救いにはならないんですよね。
もちろん父の真意を知るという意味はちゃんとあるのですが、
融との果たし合いの後すぐに手紙を渡された研吾は
その手紙を、父の思いを受け止める事ができず、
破り捨ててしまいます。
最終的には光邑先生が貼り合わせてもう一度研吾に手渡してくれ、
研吾もその手紙を受けとるのですが、
そこまでに研吾の心情を変えたのは父の真意たる手紙ではなくて、
父を思い起こさせる融の剣。
彼の中に自分の知らない若き日の父を見、
彼の剣に研吾がもともと持っていた剣道への思いを駆り立てられる。
研吾は剣の道に囚われ、剣の道に苦しめられたけれど、
剣の道に救われ、その道にしか己の生きる糧を見つけられなかったのだなあ。
小説が父の手紙を研吾の感情のピークにもってこなかったのは
文学作家としての優れたバランス感覚だったと思う。
けれど、映像の作品としてこの作品を組み直すときに、
ここにピークを持ってこなければ成立しないというのも
脚本家さんの優れたバランス感覚なんだろうと思う。
表現方法が変わると言うことはそういうことなんだろうと思います。
例えば、小説で言葉を尽くして説明しなければ伝わらない剣道の試合のやりとり。
こういう点では映像の方が得意で、まさに一見は百聞にしかず。
映像ですんなりと見せることができる。
この小説、慣れるまで読むのにすごく時間がかかったんだけど、
それは普段自分の生活では馴染みのない剣道のやりとりが
事細かに描写されているシーンを読み解くのに時間がやたらとかかったから。
けれども、その試合の細かい描写に登場人物の心情を乗せて
剣士たちの試合中の心理的な駆け引きを描写するには
小説という形式の方が圧倒的に有利になる。
映像ではモノローグで説明するか、解説を語る人物を配置しないと、
そこまでの内面は表現できない。
剣に生きる男たちの思いを、剣を通して描いたこの作品を
映像化するのはかなりハードルの高いチャレンジだったんだろうと思います。

脚本を担当した高田さんは文学作品を映像化するのがとても上手いですよね。
「そこのみにて・・・」の時も強く思いましたけど。
ストーリーやキャラクターというよりは
文書の力によって成り立っている文学作品から
映像作品として成立する要素を抜き出して組み直すのがとても上手い。
融が死に魅せられているという映画オリジナルの設定も秀逸ですよね。
原作では、過去に死にかけたという設定もありませんから、
もっと素直にシンプルに研吾の剣に魅せられる青年として描かれている。
今の自分ではとてもかなわない高みにいる一人の剣士として、
自分の中に眠る熱いものを解き放ち違うステージに連れて行ってくれる好敵手として
谷田部研吾という人間にこだわっていく。
でもこういう融の思いを描くにはどうしても説明が多くいる。
それを「死に魅せられた」という設定でクリアしてしまった。
それにこの設定は、どん底からスタートし、そこから立ち直るまでを描いた
映画の研吾の描き方にもとてもうまくはまる。
融が研吾にこだわるようになった大きなきっかけは
道場での研吾の大立ち回りなんだと思いますが、
原作にはこういう大立ち回りは出てきません。
原作では研吾は高校の剣道部のコーチですから、
あくまでも稽古の一貫として融と対峙する。
すでに再びアルコールに依存し始めていますから
酒が入った状態ではありますが・・・。
融が光邑先生に入れ知恵されて研吾から一本取るのは一緒。
でも、原作ではあくまでも研吾は剣道で融を滅多打ちにし、
融はその体験を通して研吾の剣に自分はとうていかなわないことを知る。
けれど、映画のこのシーンはすでに剣道じゃないですからね。
ただの大乱闘。
融に一本取られて怒り狂った研吾は、竹刀は折るわ、
自分を止めようとする高校生たちを蹴るわ殴るわすさまじい暴力。
修羅場ってこういうことを言うんだろうなあと思いながら見ていました。
でも融は剣道ではすらない、そのすさまじい暴力、破壊力に魅せられてしまう。
1回目見たときはそのすさまじさにただただ驚いていたのですが、
原作を読んで2回目見たときに、研吾が竹刀を折っていることの意味に気づきました。
私、子供の頃に少しだけ剣道をしていたことがあるんですけど、
剣道って本当に礼儀に厳しい。
道場に入る時と出るときは礼をするように言われますし、
竹刀の扱いは徹底的に教え込まれます。
跨いでもいけないし、ぞんざいに扱ってもいけない。
うちの子は二人とも西洋の方の剣士ですが、
剣袋の上を平気で跨いだので
「剣またいだらあかんやん!」
と言ったら
「へ?」
という感じだったことにびっくりしましたもん。
同じ剣でも日本の剣道とフェンシングでは全然違うんですね。

映画でも最初融が剣道部員に絡まれるのも、
融がバイクを避けようとして道に置いてあった竹刀を蹴ったことがきっかけでしたもんね。
その大切な竹刀を、何本も折ってしまう。
もうこれだけでこの男は剣を捨ててしまったんだなということが伝わる。
剣を捨ててしまったはずの研吾が、融の剣に父の面影を見、
剣道に対する拘りを取り戻していくきっかけになるシーンでもある。
原作にある場面を活かしながら、
映像としては全く違ったシーンを作る。
けれども原作が持っていた意味はできるだけそのままに・・・。
こういう工夫がとても上手い脚本家さんだなあと思います。

2回目を見た後には監督の舞台挨拶を見ることができました。
監督の舞台挨拶付きの上映だし! 
と張り切って朝イチでチケット取りに行ったんですが、
普通に買えたみたい・・・。
横に小学生のお子さんを連れた親子連れさんたちがいたのですが、
上映前に映画館の人が
「上映後に監督の舞台挨拶があります」
と告げると、普通にびっくりしたはったもん。
知らんと何気なくこの回のチケットを買ったんやね(^_^;)
というか、買えたんやね・・・orz
それにしても、あの親子はなぜこの映画を選んだんだろう・・・。
いや・・・いいんだけど・・・。
お子さんが剣道してるのかな?
お子さんがこの映画を見てどういう感想を持ったか、ちょっと気になる~。
R指定はかかっていないんだけどさ。
たぶん連れてきた親御さんもこういう映画だとは思ってなかったんじゃないかなあ・・・。
舞台挨拶に関しては、さっさと感想を書いておけばよかった・・・orz。
すでにだいぶん忘れてしまってます。
この日は大阪と神戸でも舞台挨拶があって、
京都が最後だったんですよね。
でも、最後だったおかげで、挨拶後サイン会がありました。
私は1回目に行った時にパンフレットを買ってしまっていたので
並ぶことができず残念・・・orz
まさかこんなおまけがあるとは!
前に買ったパンフレットでもいいですよとは言っておられたんですけど
持ってくるのを忘れてて・・・。
えーん、残念無念。
で、内容は・・・というと、他の舞台挨拶とほぼ一緒だったんじゃないのかな。
舞台挨拶が終わった後Twitterでツイート探したら
だいたい、ああそうそう! という内容が大阪や神戸の舞台挨拶に行った人からあがっていたので。
フランス(だっけ?)に勉強をするために行って、
それがとても辛かったらしいんですけど、
帰ってきた時に肉体を使って表現する映画を撮りたいと思っていたところに、
この映画のオファーが来て、この作品なら撮りたかった映画がとれるんじゃないかと思ったことや、
初めて虹郎くんにとある映画館で会ったときの話など。
若者らしくぐいぐい来る感じが、
研吾にぐいぐい迫っていく融のイメージにあった・・・という話。
事前のインタビューでも読んだ内容の話でした。
監督の話が一通り終わると、司会の方からいろいろ監督に質問がありました。
大半、忘れてしまいました(;^ω^)
アクションシーンが印象的ですが・・・という質問に
綾野君がアクションが得意な俳優さんで、現場でいろいろひっぱってもらった・・・っていう話があった気がする・・・うろおぼえ。

その後は質問タイム。
一番印象的だったのが
「役者さんは役によっていろいろ印象が変わるが、監督もそういうこと感じることはありますか」
という質問に
「綾野くんとは以前一緒に仕事をしたことがあるのだが、
時々、あれ? この人あの時と同じ人なのかな? と思う時があった」
という趣旨のことを答えられていたこと。
監督の目から見てもやっぱりそうなんだ・・・。
「夏の終り」の涼太とは全然違う役柄ですもんね。
そういえば「怒り」の宣伝で食わず嫌い王に出ていたとき、
やたらとタカさんに「殺人犯」って言われていたことを思い出しました。
言葉遣いはいつものように丁寧だし、
番組にもちゃんと積極的に参加していたし、
リアクションもちゃんとしていて、
いつもと変わらないスタンス、態度だったんだけど、
どこか隠しきれない不穏な空気を纏っていて、
もちろん髪型と髭が研吾仕様だったのでそのせいもあるんでしょうけど、
タカさんが「人殺してきてますから」なんて物騒な突っ込みしても
ちょっと納得しちゃうような雰囲気があったんですよね。
あの時、今何の撮影しているんだろう・・・って思っていたんですけど、
「武曲」だったんだなあ・・・。
そういえばそういえば、その変化、生で感じたこともあった!
「シャニダールの花」の舞台挨拶を見に行った時、
いっぱい話してくれていたのに、どこか気だるさというか、
負のオーラみたいなものを感じて、
疲れているのかなあ、仕事が余りにも立て込んでるもんなあと思っていたのが、
そのころ「そこのみにて・・・」の撮影中だったということもありました。
テンションあげて舞台挨拶をしていたけれど、
心は「そこのみにて・・・」の達夫に寄っていたんだなあ・・・って。
きっと撮影の現場ではもっとそうなんでしょうね。
決して役柄に乗っ取られているとかそういうことなのではなくて、
一生懸命役や作品のことを考えていると、
佇まいが役に寄っていくんだろうなあ。

あと、覚えている質問としては
「女性としては、研吾が最後に父親とのいい思い出を思い出して救われる
という場面で、その場にいるのが母親ではなく、
浮気相手の女性だったことに違和感があるのですが、
あれは母親ではいけなかったのですか」
という質問。監督は
「自分が男だからかもしれないが、自分はあそこが母親だと成立しないと思っている」
と答えられていました。
父親のダメな面を思い出して、そこに救われるというか、
そのダメな面を受け入れるということが大切な場面で、
これが母親(つまりは妻)だときれい過ぎる感じがする、と。
それから、監督の過去作(すみません、作品名を失念)と比較して、
その作品と描こうとしているものが似ているのだが
意識しておられたかという質問がありました。
その作品を私は見たことがなかったので、
結構込み入った内容で答えてらしたと思うのですが、忘れました・・・。
自分は結構アスリートでスポーツをずっとやっていたので、
アスリートのその後というか、
プロになれなかった多くの選手のその後みたいなものを描きたいとずっと思っていて、
この作品ではそういう観点も入れられるのではないかと思った・・・
と答えられていたのは、この質問だっけ?
なんかもう、すっかり記憶が曖昧だあ・・・。
あともう一つか二つ質問があったと思うのだけど思い出せない・・・。
こういう質問形式の舞台挨拶の時、京都ってあんまり質問出ないんですよね。
去年、岩井監督の舞台挨拶行った時も思ったんだけど。
シーンとしちゃう時間が長い。
あてられると結構いろんな突っ込んだ質問がでるんですけどね。
大阪の舞台挨拶だともっと積極的に手が上がる気がするんですよねえ。
京都の人はみんなシャイなんです。
とかいう私も、手を挙げられない方だしなあ・・・。
せっかく来てくださっているのに申し訳ないなあと思うのですが、
気持ちだけはとってもアゲアゲで聞いているので、
また京都にも来てください。

とまあここまで書いてきたんですが、実はここまでで2週間かかっています。
平日はほとんど何もできないからなんだけど・・・。
たぶん最後まで書いていたらあと1週間はかかると思うので一旦分けます。
どうでもいいことでずいぶん文字数使ってますね。
それは内容についていろいろ考えているんだけど
まだ形になり切っていないから、外堀を埋めながら書いてしまってるからだな、きっと。
というわけでその2に続きます。

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