「武曲」その2

「武曲」の続きです

3回目見たときが一番ジンと来てしみじみとよい映画だなあと思ったのだけれど、
その一番の要因は光邑和尚の存在でした。
光邑和尚の深い愛情と適切な導きがあればこそ、
研吾は立ち直ることができた。
原作では研吾がもう少ししっかりしていて、
自分の意識、意図で動いているので、
映画よりも少し引いた位置に描かれている感じがしますが、
映画ではとにかく研吾がボロボロなので
前半は光邑和尚の作為が物語をひっぱります。
融の剣道の才能を見いだすのも光邑和尚ですし、
融を研吾のもとに使いに出すのも光邑和尚。
原作でも光邑和尚の使いで融は研吾の家を訪れますが、
融が光邑和尚から手渡された手紙は映画のように白紙ではなく
剣道部の昇段試験の申込用紙。
この段階で原作の研吾はまた酒浸りの生活に戻りつつあり、
剣道部の練習にも顔を出さなくなっていますが、
まだコーチは続けている。
融とも剣道部で面識はある。
(ただし融が剣道部に入部した時くらいから休み始めたので
融が本格的に剣道を始めたことは知らない)
光邑和尚が他の部員ではなく、あえて融を研吾のもとに行かせたのは、
もちろん研吾を再び道場に呼び出すという意図はあったでしょうが
それほど強いものではない。
けれども映画では、融が届けたのは白紙の手紙。
この段階で融と研吾は一面識もありません。
ただ、自分が使っていた黒檀の木刀を見知らぬ高校生が持っていたというだけで
研吾は遠ざかっていた剣道場にやってきます。
融が残していった黒檀の木刀を光邑和尚に返すためだけに。
光邑和尚はかけだったんだろうな。
この餌に研吾が食いついてくるかどうか。
もっと言えば、きっと融の剣を初めて見た時から、
研吾にこの少年と向き合わせたいという思いがあったのだと思います。
そして、研吾は餌に食いついた。
すでに剣の道は捨て去ったように見えても、
思い入れのある黒檀の木刀を捨て置くことはできなかった。
その研吾の心の奥にくすぶっている剣道への思いに火を灯すように
光邑和尚は研吾と融を対決させます。
融に、今の研吾から1本取る秘訣を伝授して。
でも、きっと、光邑和尚が描いたのはここまでで、
光邑和尚は二人があんな危険な決闘をするとは思っていなかったのではないかな。
だって若い命を危険にさらしてまで、
何かを成し遂げようとする人には思えないもの。
ただ、そこからが光邑和尚の本領発揮。
父親を殺そうと病院を訪れた研吾を押さえつけ、そのまま寺に拉致。
まだ傷が癒えぬ融と対面させ、己がしたこととしっかり向き合わせる。
おそらくこの時初めて自分と向き合う準備ができたんだよね、研吾は。
禅の修行を通してアルコールを絶たせ、とことん自分と向き合わせる。
そして父の葬儀を済ませて、アルコール依存も脱し、落ち着いてきた頃を見計らって
父親の手紙を渡す。
光邑和尚は、研吾の実の父がなかなか立ち得なかった位置から
研吾を見守り、必要なポイントで的確な救いの手をさしのべ、
時には厳しく叱責し、時には大きな懐で包み込んでやる、
そういう絶対的は父的存在として存在していて、
それがなんかすごく、染みました。


光邑和尚の柄本さんはすごく納得の配役だったんだけど、
なんでこの役にこの役者さん? と思ったのが
カズノ役の前田敦子さん。
前半であっという間に出番が終わっちゃうんだもん、びっくりしました。
原作では行きずりの女(研吾は名前すらちゃんと覚えていない)として描かれていて
それに比べれば一応つきあっている体で描かれていますから
ましといえばましなんでしょうけど、
この役に前田敦子はもったいないやろ・・・と正直思いました。
というより、この役、いるん? と思ってしまうくらい。
一生懸命考えたカズノのこの映画における役割は、
研吾ときさらぎの女将美津子をつなぐこと。
原作では研吾が自分できさらぎにたどり着きますが、
(カズノとはきさらぎで偶然居合わせる)
映画ではカズノが女将と研吾をつないでいるっぽい。
そのほかに無理に意味を見いだすとすれば、
研吾にとって女の存在は、救いにはならないということを
暗に示しているのかなあという気がします。
同じように酒に溺れ人生から逃げようとしていた「そこのみにて光輝く」の達夫は
一人の女性との出会いによって、人として生きる気力を取り戻していきます。
けれども、研吾にとっては、女はそういう存在になりえないということなのでしょう。
酒と同じ。
父から、剣道から、なにより自分から目を逸らすための手段。
また、カズノの存在が父にとってのきさらぎの女将と同じと考えると、
カズノの愛情が修羅の世界をさまよう研吾の救いにならないのと同じように
父にとっても、きさらぎの女将は一時のやすらぎにはなりえたでしょうが
究極的な救いにはならなかったのではないかと思えます。
この物語はあくまでも男達の物語で、
そこに女の入る余地はないということなのかな。
一方で、研吾は女将を通して、
自分の知らない弱さをもった一人の人間としての父を知っていきますから
その際に、研吾自身に全く女っ気がないよりは
自分の弱さを紛らわすための慰めとしての女が側にいたほうが
父の思いを理解しやすいということもあるでしょう。
研吾に女っ気が全くなかったとしたら、
母親の立場に立ってしまって、女将の存在を否定するだけで終わる可能性もありますから。
そう考えていくと、確かに意味がある役だとは思いますが、
それでもあれだけのシーンで、前田敦子はもったいないなあ・・・。

この映画は本当に男達のドラマを描いているので
女性の登場シーンは少ないんですよね。
カズノと女将と母親・・・くらいかな。
母親に関してはほぼ原作通り。
父の言うことに逆らえない、
父のやり方がおかしいと思っても意見できない
古風な堪え忍ぶ女として描かれている。
もうすでに亡くなっている人物だし、
登場シーンも研吾の記憶の中の姿だけなので
尚更そう感じるのだと思う。
原作も同じようなものだけど、
母の兄弟がちらちらと描かれるので
映画よりは実在の人物感があるかな。
父親の手紙の中で触れられているので
一応夫婦間の愛情はあったのだと思うけれど、
高校時代の研吾が母親に
「父さん、殺してもいいかな」
と尋ねたとき、明確に止めず、叱りもしないで
黙って目を反らしたことを思うと、
やはり母親側にはなんらかのしこりがあったように思います。
もしかしたら、愛人の存在に気づいていたのかもしれない。
一方、愛人であるきさらぎのママは
はっきりと将造に対する愛情を感じさせる。
監督の舞台挨拶の時に、
砂浜で将造の横にいる女性がなぜ母親ではなかったのか、と質問された方がいましたが
その質問した人の気持ちはなんとなく分かる。
女性の思いとしては、妻である母親が沈んでしまって
愛人であるきさらぎのママがなんとなく救いを感じさせる存在になっているのが
残念なような、寂しいような・・・。
ただ、物語の構造を考えたときに、
そこは愛人でなければいけなかったという監督の答えもよく分かる。
ことに映画では、きさらぎのママの描写がぐっと引き立たせてあるから尚更。

きさらぎのママの一番大切な役割は、研吾に研吾の知らない父親の一面を伝えること。
つまり、「将造は本当は斬られたかった、でもどうしてもそれができないことに悩んでいた」
という言葉を研吾に伝えることだと思うんです。
原作では、融との決闘後、アルコール中毒の地獄から抜け出し、
その先の境地に進むための何かを、融の剣の中に見いだした頃、
そういうもろもろの思いや迷いを確認するかのように
きさらぎのママの元を尋ねます。
だからこそ、ママの言葉に衝撃を受けこそすれ、
その言葉をきちんと受け止め前に進もうとする。
けれども映画ではまだ迷いの真っ最中に研吾はこの言葉をママから聞くことになる。

映画での研吾の心情を順に追っていくと、
まず、原作以上に酒に溺れ女に溺れ、現実逃避を繰り返す日常があって、
おそらくこの間は竹刀にも触れていないのではないかという感じ。
それが光邑和尚の策略に導かれ久々に道場に顔を出し、竹刀を握る。
それまで胸の奥でくすぶっていたけれども、
見ないようにしていた剣道への思いが動き出す。
きさらぎで酒を浴びるように飲んでいると、
溢れるように過去の記憶がよみがえってくる。
将造との最後の対決、幼い頃の厳しい練習、厳しすぎる父の指導、
いつまでも父に認められない不満、そして、あの事件の後のこと・・・。
忘れたい思い出に突き動かされるように、
研吾は父の真剣を手に取り、手当たり次第切りつける。
父のいた座敷を、父の賞状の数々を、そして父と稽古をし、父を斬った庭を。
まるでなにもかもを否定してしまうように・・・。
鴨居に跳ね返された刀が額に当たり、顔面が血だらけになって
その痛みで逆上し、より激しく暴れ回る様子がとても痛々しい。
そして研吾は酒で朦朧とした頭で、高校時代の自分と母の幻覚を見る。
自分が「父を殺していいか」と母に尋ね
母が目をそらした時の幻覚を。
おそらく研吾は、高校時代にははかりかねた母親の思いを
この時ふっとつかんだように感じたのではないかな。
きさらぎの女将が父の愛人ではなかったかと思い始めていたからこそ、
母を裏切り続けていた父を、母が許していなかったのではないかと。
あの無言の反応は、肯定だったのではないかと。
この想像は研吾の心を軽くしたのだろうと思います。
決闘の末に父の脳天をかち割ってしまった自分。
父を寝たきりの植物人間にしてしまった自分。
そのことを肯定も否定もできなかったのが、
もしかしたら母は自分がしたことを許してくれるのではないかと思えた。
だからこそ、久しぶりに母の墓参りに行こうという気にもなったし、
光邑和尚にあれほど言われてものらりくらりとかわしていた酒も
やめようという気になった。
けれども、そんな研吾に外からいろいろと揺さぶりがかかります。
母親の墓参りをしているときに知り合いの老婆から心ない言葉をかけられる。
(原作ではその老婆は菩提寺の大黒とはっきり記されているんだけど
映画ではそういう説明は一切ないので谷田部家の事情を知る老婆という認識でいいのかなと思う)
仕事に出ると、融が尋ねてきて
「お父さん、どうやって殺したんですか?」
と挑発的なことを言ってくる。
でもこうした揺さぶりは、研吾の心にさざ波をたてたとは言え、
これくらいではまだ覆えされたりはしない。
きさらぎでも他の客が帰ってしまうまでの時間、
ずっとウーロン茶を飲んでいるのがその証拠。
ただ、きさらぎに行って、どうしても女将の口から父のことを聞きたいと思ったのだとすると
やはり動揺はあったのかな・・・という気はします。
そんな研吾が再び酒に逃げ込まざるを得なくなったのは、
女将の言葉にひどく動揺したから。
せっかく収まりどころを見つけた心が、収まりどころをなくして
再び暴れ出してしまった。
研吾は無意識のうちに女将から父親の悪口を聞きたかったのかもしれない。
父は殺されてしかるべき人間だったと、
生きた人間の口からはっきり聞いて、自分のしたことを肯定したかったのだと思う。
けれども女将は父の生き方を否定せず、
そこはかとない愛情を滲ませながら父を語る。
そして、おそらくもっとも研吾を動揺させたのは、
過去に女将に対して父が言った言葉。
「斬られようと思っても、それがどうしてもできない」
この言葉は唐突で、ちょっと文脈から理解するには難しい。
原作にはこの言葉にもう少し説明がつくんですよね。
研吾がスランプに陥ってしまった融に説明する形で。
斬ろう斬ろうとしているといずれは破綻する。
相手に斬られることを100パーセント受け入れた上で対峙することが
本当の意味で相手の上位に立つことであり、
こういう心境でこられると相手はもう打つ手がないのだ、と。
おそらく父親が女将に対して
「斬られようと思ってもなかなかそれができない」
と語った時には、この意味で語ったのだと思う。
自分の剣がもう一段上の高みに上る為にはこの心境が必要だと。
原作の研吾と同じように、映画の研吾もまたこの理念は知っているのだと思います。
父親ほど実感を持って切実に考えていたかは別にして。
ただ、映画の研吾が女将からこの言葉を聞いたとき、
彼の頭に浮かんだのは、この剣道の理念というより、
父が自分に自ら斬られたのではないかという疑念。
自分が父を斬ったのではなく、
父が自分に斬られようとした。
原作ではこの女将との対話のシーンはもっとずっとあとで、
融との決闘やその後の断酒などもろもろの事がすべて済んだ段階。
だからすっきりした頭で、気持ちの整理もほぼついている状態で聞いているので
衝撃を受けこそすれ、父はあの決闘で剣道家として一段上ったのではないかと
冷静に分析をしているんだけれど、
映画ではクライマックス前のキーになる場面に入れ込まれているので
研吾の衝撃度が全く違ってしまう。
この段階では研吾は父もまた迷いの中にいたことには思い至っておらず、
ましてや自分に斬られようとして対決を望んだというのは全くの想定外。
そして、何より父がそのような状態であったと考えると、
せっかく見つけた心の納めどころがなくなってしまう。
斬られてしかるべき父だからこそ、あの決闘の結末を仕方なかったこととして
心の整理をつけようとしていたのに、
その大義名分がなくなってしまう。
自分が父を斬ったのではなく、父によって斬らされたのか?
自分は結局憎むべき父親の手の上で転がされただけではなかったか。
再び不安定になった心に、女将は
「お父さんが恋しい?」
と問いかける。
「分からないのね、憎いのか好きなのか」
ここまで研吾は迷いに迷ってきた。
あの時父の誘いに乗って対決したことは正しかったのか、間違っていたのか。
年老いて、しかも酩酊していた父に対して
本気で木刀で挑んだことは正しかったのか、間違っていたのか。
あの時、父を殺さなくてよかったのか、殺してしまった方がよかったのか・・・。
でもそれはいわゆる一般的な倫理観と父に対する憎しみとの間での葛藤だと思っていたのに、
女将は「憎いのか、好きなのか」と言った。
おそらく研吾にとって「自分が父を好き」というのは
思いもしなかった感情なのではないかな。
憎みこそすれ、父が恋しいとは思いもしなかったのに、
女将のこの言葉は研吾の心を深く揺さぶった。
落ち着きかけていた心が再び大きく揺れ始め、
結局逃げるようにきさらぎを後にして
違う店で今まで以上に、酒を飲んでしまう。
自転車も乗れないほど酩酊した頭によみがえってくるのは、
父との立ち会いの前のやりとり。
剣道を嗜むものが昇段試験の際暗記を強いられる文言。
剣を学ぶ意味と理念を父の前でこれ見よがしに唱えて見せて
「その結果がこれか?」
と、酒に溺れる父に冷たく言い放つ研吾。
「お前なんかいつでも殺せるぞ」
と、すごみをきかせて答える父親。
そこには、父子の情なんて一筋もなかったはずだった。

融が研吾に命がけの対決を挑んでくるのは、まさにこのタイミング。
研吾がこの無謀な申し出を受けたのは、
断るのが面倒になって、こんな初心者の若造さっさとぶちのめして帰らせよう
という程度のものだったのでしょうが、
融の天性の才能と、死を憧れてしまっている若者らしい無謀さからくりだされる剣は
研吾を本気に変えていく。
剣道の試合と言うよりは命のやりとりを前提とした対決は、
研吾の眠っていた剣士魂を燃え上がらせる。
始めは「殺してやるから黙ってろ」と相手を煽った言葉が
やがて「早く殺してくれよ」に変わっていく。
融との決闘で期せずして研吾はあの時の父の立場に立ったのだと思う。
「殺してくれ」と願う。
それも、大切な剣道を通して殺してくれと願う。
それは年長者としてあまりにも甘えた考えだとは思うんだけど、
けれども、「殺してくれ」は、言い換えれば「斬られよう」とすること。
研吾は融との対決の中で、今まで立ち得なかった境地で剣を振るうことができた。
父もまた研吾との戦いの中で同じような境地を味わったのではないか。
嵐の中で、叩きつけるような激しい雨の中で(しかも黒い!)、
端から見れば狂気としか見えない戦いを、
時に口元に笑みを浮かべながら続ける二人の映像描写は
本当にすさまじいものでした。
原作では二人の対決シーンは嵐の中ではない。
もちろん雨も降っていないし、夜でもない。
二人の対決の異様さを、二人が体感しているものの非日常性を
際だたせるためにあえて用意された場面設定。
その中で、わずかな台詞と圧倒的な動きでこの決闘シーンを描き出した。
まさに、監督がおっしゃっていた「肉体を使った表現」でした。

研吾は融との対決の中で、融の中に父の姿を見る。
その父の姿は、研吾に打たれることを受け入れ悟ったかのような姿。
研吾が体感としてそのような父の心境に立ったからこそ
見ることができた幻だったのかもしれない。
幻の父が促すままに、研吾は父の喉元に突きを入れる。
ここは原作も同じ。
ただ、私が映画見たときも、原作を読んだ時も、
分かるようで分からなかった箇所でもあります。
父との対決を精算するために、融との対決が必要だったのはわかる。
融との対決を通じて研吾が何かをつかみ、感じたこともわかる。
でも、その結果として、父の、融ののどに突きを入れる必要性はあったのか。
父との対決の時と違って木刀ではなく竹刀を選んだのだから
ちゃんと危険性は認識しているはず。
例え竹刀であっても、急所であるのどに対する攻撃である突きは防具をつけてはいても危険な技で
高校の剣道部のコーチをしていたことでもあるし、
研吾も十分その危険性は承知していたはず・・・。
もちろん酩酊状態の研吾はあくまでも父を突いた意識しかないのだけれど、
それでもその父に対する攻撃が突きである必要があったのか・・・。
面ではいけなかったのか・・・。
(研吾が再び面を狙っていれば、手にしていたのは竹刀だったのだから
今度は命に関わるような事態にはなっていなかったはず)
その後、融が非常に危険な目にあっていること、
映画では研吾は融の手当や救助をした様子がないこと、
(原作では応急処置をし救急車を呼び病院に付き添っている)
その後も融に謝ることもない。
防具をつけない真剣勝負を望んだのは融の方であり、
死に対するあこがれを持っていた彼にとって
実際に死に直面することが必要だったのかもしれないけれど
研吾の物語から見たときに、融に対するこの仕打ちはひどすぎるのではないかという思いがどうしても残る。
ただ、この物語の構造として、研吾はどうしても父を殺さねばならなかったんだろうなあ。
父をはっきりと自分の意志で殺して、
その事実と向き合い、受け入れることでしか
研吾のこれからの人生は始まらなかったのだなあ。
父と息子の関係を描く物語、
ことに父殺しを真正面から描こうとしてこの作品で
あの突きはやはりなくてはならないものだったんだろうなあ。

死を望み、もしくは死を求め研吾と剣を交えた二人の男の内、
一人は死に、一人は生き残った。
そして同じように死を望んで対決に挑んだ研吾自身は
融に斬られることで生かされた。
もしくは言い方を変えれば、
過去の父親との対決は一方が植物人間となり
一方は社会的に生きることを捨ててしまった。
つまりどちらも生きられなかった戦いで、
融との戦いは互いが互いを生かした戦いであった
と言えるかもしれない。

初めて見たときは、とにかくここからが長く感じました。
クライマックスが融との対決で、
そこから何かつかむことで研吾が生活を立て直していくんじゃないかと
勝手に思っていたせいもあるんですけど。
けれども実はここからが長かった。
父を殺そうと立ち寄った病院で研吾は、光邑和尚の弟子に取り押さえられ
そのまま寺に連れて行かれます。
そして無理矢理傷ついた融と対面させられる。
融の傷から目を背けようとする研吾。
それを許さない和尚。
結局ここからの研吾の苦しみは、
今まで父のせいにして直面してこなかった自分自身との戦い。
父に逃げることもできず、酒に逃げることも許されず、
ただただ自分の罪深さと、依存症になっていたアルコールを断たれた苦しみに耐えるしかない。
本来、和尚はいつでもこの手を使えたはずです。
もっと早い段階で研吾を力付くで寺につれてきてアルコールを断たせ
自分と向き合う時間を強制的につくることはできたはず。
でもそれをしなかったのは、単に力付くで矯正しても
それでは本当の解決にはならないということが和尚にはわかっていたのだと思う。

印象にとても強く残っているのは、
融と向き合う時の研吾の目がきらきらと光っていたこと。
態度としてはみっともないほどおびえ、その場から逃げようとして押さえ込まれて
融が殊勝に謝っているのに
大の大人である研吾がじたばたと逃げようとしている場面なんですけど
そのおびえた研吾の目がとにかくきらきらしてて
とても意外な感じがしたのです。
ただ、ここまでの研吾が人間としてのまっとうな感覚が死んでいて
その内面を表して目が死んだようになっていたのが、
ここできちんと人としての感覚を取り戻して
だからこそ自らがしでかした結果(融の負傷)から逃げようとし、
生に執着が生まれたからこそ目に光が宿ったと考えると
あのきらきらもちゃんと意図してきらきらさせてあるのかなあという気もします。
ただ、何回も見たのにどのシーンの目が死んでいて、どのシーンからきらきらするのかきちんと検証できていないので、
最初の方からきらきらしていたのに気づいていなかっただけかもしれません。

お堂で一人苦しむ研吾に襲いかかるような仏像の数々のイメージが怖い。
仏像のものいわぬ目は世間の目であり、研吾自身の良心の目なのかもしれません。
いくつもの目に見張られて、怯えて正視することもできない研吾が切ない。
けれども、寺での修行の日々の中、
父が亡くなり、その四十九日も済んだ頃、
ようやく研吾は本来の落ち着きを取り戻す。
長い長いトンネルの終わり・・・。
融を突き倒したとき、幻の父から光が天に昇っていく様を幻視したその光が
今度は寺の庭から一つ天に昇っていく。
融との決闘の時、研吾は自分の心に巣くう父の幻を殺した。
そしてその後、実際に訪れた父の死を
ようやく客観的にとらえ受け入れることができるようになったということなのだと思う。
父と息子の関係を主題においたこの物語では、
息子がいかに父を乗り越えるかということが丁寧に描かれている。
息子は父を否定し乗り越え、そして父を乗り越えた自分を受け入れることで
一つの通過儀礼としての父殺しの儀式が完成するのだろうなあ。
実際に命をかけて勝負して、自分の手で父の命を縮めるようなハードな経験をすることはそうそうないとしても
多かれ少なかれ心の中で父親を否定しそれを乗り越えていく息子は多いんだろうなと思う。
もちろん、父の、もしくは息子の性格、性質も大きく関係するのだろうけど。

光邑和尚から研吾に父の手紙が手渡されるのは
父の四十九日が済んでから。
光邑和尚は研吾が落ち着くのを待っていたんでしょうね。
原作ではもっと早い段階で渡していますから、
手紙に書かれた内容を研吾が受け入れることができず、
びりびりに破いてしまいます。
その後その手紙は光邑和尚の手で継ぎ合わされ、
再び手渡されるのですが・・・。
初めて映画でこの手紙の内容を知ったとき、
とても驚きました。
まず、現代の手紙にしては珍しい達筆な筆で書かれていたこととその表現の美しさ。
だって映画ではお父さんの台詞ってほとんど
「殺せ!」
なんですよ。
同じシーンの回想が多いせいなんですけどね。
「殺せ」か「そんなもんか!」くらいしかイメージがなくて
なんかおっかないおじさんとしか思えなかったのに、
その人がこれほど美しい手紙を書く人だったとは!
そしてその内容も愛情にあふれていて、
なんだ、ちゃんと愛情ある普通の人なんやん・・・と安心したものです。
「静子と私の大事な大事な息子でございます」
という表現にジンときたりして・・・。
原作でもこの文面はほぼそのままでした。
ただ多少映画のほうがはしょってあります。
ただ、大きく違うのは原作の手紙では、将造さんは自分が負けるときだけでなく、
自分が勝った時のことも書き記しているんですよね。
自分が残るようであればこの手紙は捨て置きくださいと。
映画ではこの部分を省略してしまっているので、
残るのは研吾だから、その後のことをよろしく頼むというだけの内容になっている。
他のどの箇所よりも、この部分の省略は大きい。
「殺されてこそ本望、憎まれても本望」
「己の愚かさこそを 斬られてしまいたく」
と書いているのに、それでも自分が勝つ可能性を考えているのが原作の将造。
でも映画の将造はその可能性に言及しないことで、
自分が負けるということを手紙を書いた時点で受け入れているように取れる。
息子の「鏡にも誇りの片鱗にも成れなかった」自分が
息子に斬られることで息子の成長の踏み台になる。
そういう覚悟をしっかりと感じさせるのは映画の方かなあという気がします。
そしてこの手紙は、研吾がきさらぎの女将から聞かされ、ひどく動揺してしまった
「斬られたいのにそれができない」
という言葉の、一つのアンサーになっていますよね。
息子の為に「斬られること」を覚悟し、実行することができた。
それはストレートに強い父親の愛情を感じさせる。
父の幻影と向き合い、自分と向き合い、そこから逃げることをやめた研吾だからこそ
この父の手紙を、父の歪んだ愛情を受け止められた。
ここでようやく研吾の物語に一区切りがつく。

一方、融の方はというと、
原作よりも分量は減らされていますが、
きちんと融の心情を追えるくらい融の物語も描かれています。
原作は完全に半分半分で、研吾と融はダブル主人公なのですが
映画では研吾が主役になっている分、ちょっと比重が軽い。
前半は融が物語を引っ張っていくんですけどね。
融がラップのリリックに夢中な今時の高校生で、
ひょんなことから剣道に出会い、才能を見出されて、のめり込むまでは
どちらかというと融の物語が中心に描かれる。
融役の村上虹郎くんがいいんですよねえ・・・。
無鉄砲な感じ、投げやりな感じ、純粋な感じ、未熟な感じ、
可能性が全身からにじみ出ているような
あの世代特有のゆらぎがきちんとスクリーンに映しだされていました。
生意気そうな瞳がきらきらと輝くあの感じは、
確かに一定の年齢を経ると出せなくなるんだろうなあ。
研吾が生きながらに死んでいるような状態で、
人間としての生気をあまり感じさせないのと対比して
「生」の輝きが感じられるきらきらとした瞳。
生の輝きのど真ん中にいる融は死に魅せられ、
半分死んでいるような生き方をしている研吾は死から必死に目を背けている。
研吾の苦悩があれほどくっきりと浮かび上がったのは
融がきちんと光輝いていたからだと思うんですよね。
物怖じせずに、融の無鉄砲さそのままに
スクリーンの中に存在し輝いてくれたてくれた虹郎くんがいればこそ、
この作品の陰影がきちんと伝わったんだと思います。

原作では融は研吾との決闘の後、それでもちゃんと剣道を続けています。
昇段試験に挑む中で、融は剣道そのものに魅せられ、
剣道を通じて自分と向き合っていくのですが、
映画ではその部分がありません。
死にあこがれ、自分から防具なしの試合を挑んだ融が、
研吾との決闘の後、付き物が落ちたようになってしまいます。
決闘後、寺で研吾と初めて対面したとき、
融が研吾に謝るというのは原作にもあります。
でも、原作では先に研吾が土下座して融に謝っているんですよね。
自分が教え子である融を危険にさらしたことを恥じて。
融に罵倒され、殴られ、蹴られるのを覚悟の上で頭を下げている。
融はその研吾の背中に、研吾の弱さ、脆さを見て取って、
研吾の願うように研吾に怒りをぶつけるのは格好悪いという
子供らしいプライドで、自分も床に手をついて研吾に頭を下げる。
でも、映画では研吾は謝ってませんもんね。
ただただ自分の罪(融の傷)から目を背けて恥ずかしげもなく怯えている。
その研吾に対して粛々と頭を下げる融がなんか大人すぎて、
うまく表現できないんだけど、ちょっと切ない。
おそらく融は気が付いたのではないのかな。
自分を無軌道に駆り立てていた死への憧れが、
死が自分のすぐそばにあると感じる瞬間の高揚感が
実は強烈な恐怖感と裏腹のものであることを。
自分の力ではどうすることもできない巨大な力によって
簡単に命が奪われてしまうような圧倒的な恐怖から逃れるために
自分から死に近づくことで、
その恐怖に蓋をしていたことを・・・。
そうしたある意味自分勝手なチキンレースに研吾を巻き込んで
こんな大騒動にしてしまったことに対してあの場で謝ったのだろうけど、
研吾の苦悩が延々と描かれているのに対して、
融の意識の転換は描かれないので、
一気に大人になったように感じてしまう。
一気に研吾を飛び越えてしまったかのような・・・。
映画は研吾の物語がメインとなって描かれるので仕方ないと言えば仕方ないのだけれど。

ただ、本当の意味で融が自分の憧れていたもの(もしくはおそれていたもの)を自覚するのは
研吾が木刀を持って訪ねて来てからなのかな。
考えてみれば、死に近づいてその恐怖を楽しむチキンレースをしたいのなら
海に勝手に飛び込んでいればいいわけです。
でも融はずっと海をおそれていた。
海岸までは来るけれど、海には入れないという描写が前半にありました。
そう言えば、融が素振りをするのは海辺が多かったなあ。
あれは死の恐怖そのものである海に対して剣を振っていたのかもしれないな。
自分はお前なんか怖くはないぞ、と。
非力な少年がナイフを手にした高揚感のようなものだったのかもしれません。
自分だけじゃ対峙できないけれど、
ナイフという武器で武装したら強くなれた気がするのと同じで、
海に入ることはできないのに、
木刀を振ることで海への恐怖感を克服できる・・・というような。
でも、実際に研吾と対峙し、負けて、
死への憧れという憑き物が落ちてしまった。
死に近づいた時に感じる高揚感だけでは
相手に(死に)勝てないことに気づいてしまったから。
けれども嵐の中のあの決闘で、融は剣道そのものの面白味にも目覚めた。
もしくは、そこに至るまでの素振りや練習で気づき初めていたんだろうけど、
研吾との真剣なやりとりの中で「死に近づく高揚感」以外の何かを
感じていたんだと思う。
だからこそ、研吾が置いていった木刀をそのままにしてはおけなかった。
夜、再び砂浜にやってきて、けれど木刀を手に取らず
海に走っていって飛び込む。
死に憧れ、死を、海をおそれていた自分を乗り越えた瞬間。
ここから融にとって本当の意味での剣道が始まるのだろうな。

融に木刀を渡しに来た研吾、いいですよね。
アルコール依存から脱して、父を見送って、弱い自分を受け入れて、
ようやく年相応の落ち着きを取り戻した大人として、
剣道の先達として、
剣道から離れてしまった融を迎えに来た。
研吾という人は本来はこういう落ち着いた佇まいの
静謐な空気を纏った人なんだなあ・・・。
酒に酔っていない、普段の姿の研吾って
ここで初めて登場するんですもんね。
そう言えば剣道から離れてしまった研吾を迎えにきたのも、
この黒壇の木刀を手にした融でした。
今度は研吾が黒壇の木刀を手に融を迎えに来たんですね。
そして、坂の上と下という構図は、
嵐の中決闘を申し込みに来た時の構図に似てる。
でも、今度は死ぬための戦いではなくて、
剣の中で生きるための戦いを申し込みに来た。

小説で巧みな表現によって描かれる剣道の試合中の攻防や心理は
映画では映像でしか見せることができません。
映像は一目見ればどう動いたかはわかるんだけど、
素人がぼーっと見てても、今の技のなにがすごかったのか、
なにを狙っての動きだったのか、わかりません。
それどころか、今の一本が入ったのかどうかさえも判定できません。
解説がつくから、なんとなく分かったつもりで見ていられるんだけど。
だから最後の剣道のシーンは原作を読んでから見た方が
ずっといろんなことを考えられた場面でした。
小説の方で試合中の駆け引きや心の動きをつかんだ後、
このシーンを見たら、めまぐるしく立ち位置を変え
剣先だけを付き合わして奇声を発している場面も、
きっと二人の心の中ではこういうやりとりがされているんだろうなあと
想像することができましたから。
そういう意味ではこの映画は最後の最後でようやく本格的な剣道が描かれた
といっても過言ではないはず・・・。
少しばかりの練習シーンはありましたが、本格的な試合はここだけ。
しかも、主人公がきちんと防具をつけるのもここだけだという・・・。
道場に入り防具をつけ、蹲踞し試合を始めるまでが
丁寧にたっぷりと時間をかけて丁寧に描かれます。
その一つ一つの所作の美しいこと!
予告にも使われた手ぬぐいを顔の前にばんっと広げて
鋭い目だけが見えるシーンはその美しさにはっとしました。
今までのどのシーンの目とも明らかに違う、
狂気の混じらない、まっすぐな、戦う眼。
もう完全に立ちなおったという事とともに、
研吾という人物がもともと優れた剣士であることを感じさせる眼。
互いに間をはかり何回か出方を探るようなやりとりの後、
融がゆっくりと下段に構え、研吾は上段に構えを移します。
嵐の決闘の際、融が研吾の胴に一本入れたのもこの下段、
研吾が融をこの試合に誘うときに言った言葉も
「お前の下段がもう一度見たい」でした。
一瞬の間の後、互いに繰り出された一手・・・というところで映画は終わります。
途中の壮絶さを吹き飛ばすような、すがすがしい終わり方でした。

綾野君の演技に関しては、もう、すごいとしか言いようがない。
大友監督が、役者は自身の身体を通して役を表現するのだから
身体能力の高さは俳優の重要な資質・・・みたいなことを
「るろうに剣心」の時に言っていたと思いますが、
ことあるごとにこの言葉って思い出すんですよね。
この映画もまさに綾野君の身体能力が遺憾なく発揮された作品だったと思います。
身体能力が試される映画って、アクションものであることが多いじゃないですか。
でもいわゆるアクションものではなく、これだけ肉体を使って表現する映画も
珍しいなあと思いました。
もちろん剣道の映画であるし、身体を使うのは当然なんだけど、
前述したように、実はきちんとした剣道のシーンって最後だけなんですよね。
高校の体育館で研吾が大暴れするシーンや
嵐の中の決闘シーンは、アクションシーンらしいといえばアクションらしいシーンなんですが
それ以外の場面、たとえば、一人で家の中で刀を振り回してみたり
酩酊して自転車に乗れずずっこけたり、
酒がきれて暴れたり・・・というシーンは
本当に全身を使って研吾の感情を表現していて、
これだけ感情を言葉や表情だけでなく
全身で表現する役って珍しい気がするんです。
綾野君がどちらかというと繊細なタイプの役者さんなので
こういう役が少なかったから余計そう感じてしまうのかな。
アクションシーンがメインの作品の場合も、
動きにあまり感情を乗せないタイプの役が多かったですよね。
クローズⅡの漆原とかGANTZの黒服星人とか。
感情をあまり乗せないことで異質感を出すようなパターンが多かった気がする。
そういう意味で今までとはまたちょっと違った作品だったなあという印象。
じっくりと心情を追うタイプの作品でありながら、
とても動きの多い作品という意味で。
身体はとても乱暴に大きく動いているのに
心はとても繊細に揺れている・・・
その繊細さは綾野君ならではだったのではないかなあと思います。
こういうタイプの作品、ありそうでなかった気がする。
見るまでは正直取っつきにくいかな、好きな要素は少ないかな・・・
と思っていたのですが、なんのなんの、好きな作品の一つになりました。

この映画のパンフレットにはありがたいことに完成台本が載っていて、
原作も手元にあるので、そういう意味ではとても感想を書く環境が整っていて・・・。
私は記憶力が皆無なので、映画館で見ただけでは細かい部分までは覚えてられません。
だから大抵の映画の感想はだいたいの流れの中で
アバウトな印象だけで一気に書いちゃうことが多いんだけど、
完成台本があるのでかなり確認できちゃうんですよね。
そうなると細かいところまで書きたくなって・・・。
書いていると、そういやここ原作ではどうなってたんだっけ・・・
と原作を読み直してみたり・・・。
そんなこんなでゆっくりじっくり書いていたら、
書きながら「わかったつもりになっていて、実はわかっていなかった」部分がいっぱい出てきて、
そのたびに完成台本と原作を行きつ戻りつしながら考えて。
ということを繰り返していたら、こんなに時間がかかってしまった・・・。
これでも週末ごとにずっと書いていたんですけど・・・。
お盆休みもそれなりにがんばったんですけど・・・。
でもまあ、これで一区切り。
自分の中でもこの作品がようやく収まるところに収まったって感じ。

次は「亜人」ですね。
マンガ原作の場合は読まないことが多いんですけど
「亜人」はなんか気になって10巻まで読んでみました。
これまた非常にアクションが楽しみな作品ですね。
綾野くんが出演する映画でIMAXや4DXに展開する作品って
そう多くはないので、そういう意味でも楽しみ。
4DXデビューしてみるかな。














2017年夏ドラマスタート

武曲の感想に手間取っているので
とりあえず急ぎでこの夏のドラマの感想。
今回初回を見たドラマは
・コードブルー
・下北沢ダイハード
・僕たちがやりました
・カンナさーん!
・過保護のカホコ
・黒皮の手帖
・セシルのもくろみ
・脳にスマホが埋められた!
・ハロー張りネズミ
・あいの結婚相談所
・ウチの夫は仕事ができない
・デッドストック
・ごめん、愛してる
・警視庁いきもの係
・愛したって、秘密はある
・マジで航海してます
・居酒屋ふじ
・ブランケットキャット
・悦ちゃん~昭和駄目パパ恋物語~
・アキラとあきら
・孤食ロボット
くらいかな・・・。
深夜ドラマで抜けているのもあるかもしれない。

今期は特に設定が突拍子もなくて
こんなんでドラマが成立するの?
と思ったドラマが多かった気がします。
だってドラマ紹介の文を読んで
「脳にスマホが埋め込まれスマホ人間となった男が・・・」
とか
「過保護に育てられた女の子が自立していく物語」
とか書いてあっても、なかなか「これ見たい!」と思えない(;^ω^)
でも、こうした紹介文だけ読んでいた段階ではも一つ気分が乗らなかったドラマも
実際に見てみるとキャラクターが立っていたり、
アイディアが上手く映像として処理されていて面白かったり・・・で
やっぱりドラマは実際に見てみないとわかんないもんだなあと思います。
とくに「スマホ」と「カホコ」は主人公が魅力的。
突拍子もない人物設定で、全然リアルではない人物を
上手く魅力的に見せているんですよね。
強調の仕方、デフォルメの仕方の加減が上手い。

伊藤君は本当に不思議な役者さんで、
決してハンサムじゃないし、役も三枚目というか
いろんな部分で駄目なところが多い人物を演じることが多いのに
どんな役もとても魅力的に見せるんですよね。
なんかほっておけない気分にさせてしまう。
視聴者に親近感を持たせる力がとても強い。
ある意味とてもTVドラマ向けの役者さんなんだろうと思います。
「スマホ」も伊藤君が演じることで、ずいぶん作品が引っ張り上げられていると思う。
他人のスマホを盗み見られるというのは発想としてはとても面白いけど
ともすればアイディア倒れになりそうな企画なのに
ちゃんとドラマとして見ていて楽しい。
スマホ人間の表現方法もCGの使い方が上手いですよね。
あんまり話題になっていないけど、
今期一番見る前と見てからのギャップが大きかったドラマ。

「過保護のカホコ」は遊川さんの脚本と聞いて期待半分不安半分。
遊川さんの作品は好きなものときらいなものに大きく分かれてしまうので。
ここ最近はあまり好きな作品が無かったのでどうかなあ・・・って思っていたのですが
今のところ、すごく面白いです。
登場人物のデフォルメの仕方も楽しいし、
それをベテランの役者さんたちが楽しそうに演じておられるのもいい。
時任さんの気弱げなナレーション、最高!
カホコを楽しく見ていられるのは、
お父さんの視点からちゃんと突っ込んでくれているから。
でもなんと言っても高畑充希ちゃんが上手いですよね。
最初こそ、あまりの主体性のなさにイライラしましたが
一生懸命さが伝わるので主人公としてちゃんと魅力が伝わる。
表現のさじ加減が絶妙なんだと思います。
そしてもう一人竹内涼真くんもすばらしい。
「ひよっこ」毎日見ているんだけど、
最初島谷くんと同じ役者さんってわかりませんでした。
実は島谷くんを見ているときはそう思わなかったんだけど
麦野を演じているのを見て、この人うまいなあと気が付きました。
ツンデレの役なので、結構きつい言葉でカホコに迫ったりするんだけど
嫌みにならないところで上手く押さえてる。
そんでもって、麦野君を見た後、島谷くんを意識して見ると
かなり繊細に演じているんだ・・・
島谷くんの演技ってすごく押さえてあるから今まで気づいてませんでした。
全然タイプの違う役をこれだけ自然に演じわけるとは、
若いのにすごいなあ。
カホコと麦野くんのシーンは本当にテンポがよくって
見ていて楽しいんですよね。
今のところ、最近の遊川さんの作品に感じる苦手な部分もあまり感じないので楽しんで見ています。

「カンナさーん!」は渡辺直美さんがかわいくて
彼女を見ているだけで楽しいんだけど、
なんとなく毎回なんかひっかかる・・・。
元夫にいらっときたり、
頑張りすぎる様子を見ていてしんどくなったり・・・。
今はいらっとする部分と楽しく見ている部分のせめぎ合いといったところ。

「黒革の手帖」は何度も映像化されていて
なんかもう今更・・・って思っていたんだけれど、
1回目を見るとぐっと引きつけられてしまった。
やっぱり何回も映像化を試みられているだけあって
原作の骨子がしっかりしているからか、
ある程度展開がわかっていても見入ってしまう。
武井さんはこの役には若すぎるのでは?
と思ったのですが、なんのなんの見事なママぶり。
そして思わず画面に見入ってしまうほどの美しさ。
もともときれいな子だなあとは思っていたのですが、
この作品では殊更きれいに映っている気がします。
そして、今までいい子の役が多かった気がするのですが、
こういうスノッブさを持つような役の方がずっと輝いて見える。
そして、そして、仲里依紗さん。
私は前のクールで話題になった「あなたのことはそれほど」を
仲さんが出てくる前にリタイアしてしまったので見ていないのですが
この作品でも仲さんの存在感が話題になっているのは何となく知っていました。
私が最近見た中で印象的だったのは「逃げる女」というNHKのドラマ。
銀髪で平気で人を殺すエキセントリックな女をとても印象的に演じていました。
「黒革の手帖」でも、武井さん演じる元子とは対局の女として
ゲスい女を力一杯演じています。
2話は本当に仲さんに引っ張られて見たもんなあ。
他の脇の人もみなさん適役で毎回安定して楽しめるドラマです。

「ごめん、愛してる」はベタだとは思うんですよね。
展開がドラマチック過ぎて、韓国ドラマみたい・・・って思ったら
本当に韓国ドラマが原作なんですね。
韓国ドラマ風の展開のさせ方は苦手なことが多いんだけど、
たまーに、こういうベタな展開にはまる・・・。
なんだかんだ言っても「冬のソナタ」もしっかりはまったし。
でも、なんと言ってもこのドラマに関しては
長瀬くんがかっこいいことが一番の魅力。
こういうテイストの役を演じる長瀬くん、好きだあ・・・。
そして、長瀬君のライバル役の坂口健太郎くんもいい。
坂口君の持つ「甘さ」がこの役に上手くはまってる。
天才で純粋で母親に溺愛されて育ったおぼっちゃん。
だからこそ持っている無自覚の残酷さが
ちゃんと役の魅力になっている。
長瀬君と坂口君の真逆の魅力がドラマを牽引していて、
ベタな部分もそれなりに見られてしまう。
こういうドラマばっかりになったらいやだけど、
たまにはこういうラブストーリーにどっぷりつかりたくなるんだよなあ。
というわけで楽しみに見ています。

「うちの夫は仕事ができない」はとにかく初回がびっくりしました。
「フランケンシュタインの恋」を彷彿させるシーンが満載で。
ただでさえ森が映るだけで過剰反応していた時期に
森での出会いのシーンと夫がキノコ好き(キノコを研究していた)という部分に
なんだかとってもうれしくなり、
その勢いでそのまま見続けている感じ。
もちろんこのドラマでは森やキノコはそれ以上出るわけではないのですが、
とにかく主役の夫婦がかわいい。
錦戸くんは好きな役者さんなんですが、
はまる役というのがある役者さんだなあと思っていて
どんな役でも変幻自在に演じる・・・タイプではないと思うんですよね。
多少ストライクゾーンからずれても、
ぐっと自分の方に役を引きつけられる人だとは思うんですけど。
でも、この役は錦戸くんにぴったりの役なので
本当に安心して見ていられます。
なんだかんだあっても、毎回それなりにほのぼのまとまっていくので
そういう意味でも安心してのんびり楽しめるドラマ。
ただ、例えば録画を失敗して1回飛んでしまったら、
もうそれはそれでいいかなあと見なくなってしまうかも・・・くらいの感じ。
もっとぎゅっと引きつけるなにかが、ほんの少し足りないかなあと言う
なんかよくわかんない物足りなさはなんとなく感じます。
それが何なのかは分かんないんだけど。

「ぼくらがやりました」は初回見て「シュアリーサムデイ」やん!
って思いました。
あの年代の男子のあほさかげんが、いろんな方向から描かれて詰め込まれた初回は
正直げんなりしました。
描き方がどうのというよりも、単に好き嫌いの話です。
うーん、窪田くんが主役と言うことで期待してたけど
初回はひたすらバカやっているだけで、正直もういいかなあ・・・って思ったんだけど、
2回目くらいから様々に揺れ動く主人公を窪田くんが本当に丁寧に演じていて
もうちょっと見てみようかな・・・という気になっています。
主人公の仲間の井佐美とマルはどちらもトライストーンの若手さんなんですね。
間宮くんは綾野君がかわいがっている後輩だし、
葉山くんは「フランケン」で共演していたし・・・で、
なんかちょっとうれしい。

「あいの結婚相談所」はまんま山崎さんのパフォーマンスに依存した話で
それはそれで振り切っていて楽しいなあと思いました。
この振り切り方も深夜ドラマならではだなあ・・・と。

同じく深夜ドラマならではだなあと思ったのは「デッド・ストック」
すごく夏らしい題材ですよね。
ストレートにこういう恐怖物をしようというのが逆に新鮮。
ついでに虹郎君がかわいい。
本筋も怖いけど、虹郎くん演じる新人ADのお母さん?も怖いんですけど
彼女、生きてますよね?
お母さんと言えば、エンディングがUAでこれもうれしい。

「下北沢ダイハード」は企画が面白いです。
こういう企画が出てくるっていうのは、
TV東京の力なんだろうなあと思います。
オープニングもエンディングもかっこいいですしね。
エンディングだけに柄本さんが出ているのも、何とも贅沢。
いずれ柄本さんも本編にでるんですかね?

これはWOWWOWドラマなので、厳密には夏ドラマと言えないかもしれないんだけど
「アキラとあきら」が面白いです。
やっぱり井戸端さんの原作ものは面白い。
アキラとあきらの因縁めいた関係も面白いし、
過去の回想が多く挿入されて、その部分だけでも十分楽しめるくらい描き込まれていて
その過去が現代にどう響いているかという描き方も面白い。
何よりアキラとあきらを単純に対立するライバルとして描かずに
(これからそうなっていくのかもしれませんが)
それぞれの立場で、それぞれの問題と向き合わせながらも
二人の関係性を描いていくというのが上手い。
向井くんも斉藤巧くんも企業ものというイメージはなかったのですが
なんの違和感もなくはまってる。
TBSも最近企業もののドラマを多く作っていますが
WOWWOWの方がちょっと押さえた演出で、
物語をじっくり見せてくれるので、私は好きかな。
この「アキラとあきら」のように、大きく二つの柱があるような
少し複雑なストーリーはWOWWOW得意だよなあ。
いい意味で役者の個性が前に出過ぎずに(つまりは役者だよりじゃなく)
地に足の着いたどっしりとしたドラマづくりをしているなあと思います。

とまあこんな感じで、8月に入ってようやく見るドラマも絞れてきました。
ところで、このクールってなんだかドラマ掛け持ちしている人、多くないですか?
中には同じ刑事役で出ている人もいるし。
たまに混乱してしまいます・・・。
掛け持ちが悪いわけではないんですけどね・・・。
あんまり多いと「もっと他にもたくさん役者さんいるのに・・・」とつい思っちゃう。

このクールは結構バラエティに富んだ作品が多くて楽しいです。
ただ、のめり込むほどの作品はないかなあという印象。
さて、何本最後まで見るかな?
今のところ10本前後まで絞れているんだけど、
もう少し減らさないと追っ付かないなあ・・・。