武曲

ずいぶん感想が遅くなってしまいましたが、
新たに上映される映画館もあるので、いいかな。
結局、3回劇場で見ました。
1回目は初日に。
2回目はその1週間後、監督が京都に舞台挨拶に来られるというので。
3回目は7月1日の映画の日に。
綾野くんの出演作、結構気に入った作品は2回見に行ったりしてるんだけど
3回というのはなかったんじゃないのかな。
というか、綾野君の作品じゃなくても3回見に行くことはあんまりないんですよね。
「ハゲタカ」と「この世界の片隅に」くらいじゃなかったっけ?
何回でも見たい! という作品はほかにもあったんだけど、
実際に行こうとしたときにちょうどいい上映時間がなかったり、
用事が重なっていたり、
映画館が遠くて挫折したり・・・。
綾野君の場合は出演作が立て込んでいることが多かったので、
次、次、次・・・と見ていくうちに上映が終わってたってことも・・・。
去年の「怒り」なんかはもう一回映画館で見たいと思ったもんな・・・。
あと一回見ようかなと思えたときに、
それを後押しする要因があることも大きい。
「ハゲタカ」の時は、まだパートをしていたので、
平日に1日か2日休みがあって、その時たまたま水曜レディースデーに休みで。
せっかくだから映画行きたいなあ・・・って思った時に、
行きつけの映画館で、一番座席が座り心地がよくってゴージャスなスクリーンで
「ハゲタカ」が上映されると知って思い切って行ったんだよなあ・・・。
もう公開からずいぶん日にちがたっていて、
3人で見たのがすごく印象的でした。
「この世界の片隅に」の時は近くの映画館でずいぶん長く上映されていたんだけど
もういよいよ終わるなあという頃、
ULTIRAで最後に1回だけ上映します! という言葉につられて見に行ったんだった。
で、今回は滅多にない映画の日が土曜日という幸運。
でも、もっと幸運だったのは、京都ではまだこの時に上映してたってこと。
大阪でいけそうな範囲の映画館はその前の週で最終だったんだけど、
京都はこの週が最終で。
それで思い切って行ってみたんですよねえ。

でも、なんとなく2回目と3回目の間には自分の中で大きな境がある・・・みたいです。
大抵の映画は2回見るとなんかつかめる・・・というか、
ちょっと(もちろん全部とは言えません)自分の中で消化されるんですよね。
初見の時に見落としていたことに気づいたり、
1回目よりもストーリーの構成に目がいったり、
細かい演技の意味する物に気づくことができたり。
とくに好きな俳優さんを目当てに見に行く作品は、
事前に原作を読んだり、宣伝でたくさんインタビューを目にしていたり、で
事前情報をかなり仕入れた上で見に行きますから、
大抵は大まかな話の展開や人物の情報、見所のシーンなんかを
わかった上で見に行ってるので、
ある意味、初見の段階で2回目に見るのに近い状態で見ています。
原作の台詞や設定が変えられていたり、
時には途中の展開や結末、もしくは描こうとしている世界観そのものが
原作とは違っている場合もありますが、
それは初見の段階で、あ、ここが違う、こう変わってる、と気づけます。
そこで生まれた疑問や解釈があるときは
2回目を見に行くと、ああそういうことか・・・と納得できることが多い。
だから、2回で止まっちゃうことが多いんですよね。
でも、今回「武曲」では珍しく原作を読まなかったので、
初見が全くの初見、物語との最初の出会いだったんです。
もちろんインタビューは目についたものは読んでいたので、
研吾はどうもお父さんに何かしたらしい、とか、
融は過去に死にかけたことがあって、死にあこがれる青年らしい、とか
クライマックスでは二人が嵐の中壮絶な果たし合いをするらしい・・・
くらいの知識はあったんですけど、
あそこまで壮絶な話だとは思っていなかったので、
正直、1回目を見たときには辛い話だなあという印象しかなくて
この作品をどう自分の中で消化したらいいんだろうと、
ちょっと呆然としました。
Twitterで見かけた言葉に「修羅」というキーワードがあって、
その言葉が本当にしっくりきました。
「修羅」の世界にとらわれてしまった人間の苦しみ、もがき。
てっきり、勝手にクライマックスの果たし合いの後、
研吾は変わる、救われると思っていたので、
そこからの苦しみが長かったのが大きいんだと思う。
というか、そこからが本当に見ているのが辛くなるほどの足掻きがあった。
物語の9割は救われない研吾の苦悩が描かれているので
この人はどうやったら救われるのだろうかと
見ながらそればかり考えていました。
例えば、自堕落な生活におぼれているというと
「そこのみにて輝く」の達夫もそうでしたが、
達夫の場合は、もっと内省的というか、
自分一人で墜ちている、他者を拒んでいるだけという感じだったのに対して
研吾のそれは恐ろしいほど他者にストレートに怒りを向ける。
身体を鍛えた猛者が自暴自棄になり、
感情のままに暴れ回ると、こんなに危険な存在になるんだ・・・
同じ役者さんが同じような「墜ちている」人間を演じているのに、
全く別物としか感じさせないのはすごいなあと思いました。
暴れて悪態ついて、発散している部分もあるはずなのに
達夫よりもずっとずっと深い闇に落ち込んでしまっている感じがする。
初回に見た時の印象はこの程度で、
それはたぶん、原作者さんが言うところの、感情のグラデーションが
見えていなかったからなんだと思うんですよね。
だからひたすらもがき苦しむ研吾があまりにも執拗に描かれると感じてしまった。

そこからあわてて原作を読みました。
もともと映画を見たら読もうと買ってあったので手元にはあったんです。
原作を読んだら、びっくり。
とりあえず原作の開始時点の研吾はちゃんとしている。
正気か狂気かと言えば、ちゃんと正気の域で生活している。
読み進めると、過去にアルコール依存症になるくらいまで生活が崩壊していたこともわかるんですけど、
とりあえず、小説のスタート時期での研吾は社会人としてちゃんと生きている。
仕事こそ映画と同じ警備員だけど、
お酒は断っているし、剣道部のコーチとして練習も見ている。
融の才能を見いだすのも研吾。
寝たきりの植物状態になった父親の面倒をきちんとみる孝行息子として
周りからは見られている。
でも、中盤でそれが一気に崩れる。
やめていたお酒に手を出すと、そこからは一気に墜ちていく。
仕事に行かなくなり、酒がやめられなくなり、
剣道部に行くこともしなくなってしまう・・・。
それでも、映画の研吾ほど墜ちていないのは
まだちゃんとどこかで自分を客観的に見つめる目を持っていて
これではいけないともがいているから。
それはやはり、小説という表現形式ということが大きいんだろうな。
原作は1章ごとに研吾と融それぞれの視点で物語が語られ進んでいく。
1人称の視点で語られる文章は、そのままその人物の心に寄り添うので
読者は研吾の、融の心を通して物語世界を見ていくことになる。
ということは、研吾の心の動きや揺れが言葉で説明されていくので
それを語る語り手としての研吾が客観的な視点をもっているように見えるというのは必然。
とは言え、本当に文章に力がある作家さんなので、
文章がすばらしいんですよね。
研吾がアルコール依存症に逆戻りして、アルコールを手放せなくなるくだりでは
饒舌に語りながら、アルコールに犯されて正常ではなくなっていく研吾の精神を
見事に文章に反映していく。
これではいけない、酒をやめなければ・・・ともがきながらも
やすやすと酒におぼれ、酩酊した精神で見た世界の歪みを
的確に表現していく。
本当にこの辺り読んでいるとき、依存症にはまってしまった気分に
とっぷりと陥ってしまいましたもん。
(すぐに影響されるとも言えるんですけど(;^ω^))
映画よりも、原作のほうがゆるやかだけどより複雑に
研吾が揺れ動いている。
いったんは社会復帰できているところからスタートして、
ふたたびアルコール依存の自暴自棄の生活に陥り
融との決闘を経て、立ち直るのももっと複雑な奇跡を描く。
それを脚本の高田さんは映像として語るためにすごくシンプルな形にしたんだなあ。
一番象徴的なのは、父親からの手紙。
原作を読んで驚いたのは、この手紙が研吾の心を救うものにはなっていないこと。
映画ではこの手紙が研吾の感情を描く上での一つのピークとして使われています。
ある意味ではとてもベタなんですけどね。
手紙によって初めて父親の真意を知って、立ち直るというのは。
この映画の感想を探していたときに、この部分に反発している人もいたなあ。
ただ、丁寧に映像で表現されたものを見ていった時に、
十分に研吾が自分と向き合えるようになった時を見計らって、
光邑先生が研吾にこの手紙を見せることで、研吾が最終的に救済される
というのはきちんと映画として、物語として成立していると思うんです。
言葉で事細かに心情を説明されない映像作品だからこそ、
ここで、ここまで一番真意が見えなかった父親の思いを
言葉として提示することの意味は大きい。
でも、言葉で研吾の揺れる思いを表現している小説では
父の手紙は映画ほど劇的な救いにはならないんですよね。
もちろん父の真意を知るという意味はちゃんとあるのですが、
融との果たし合いの後すぐに手紙を渡された研吾は
その手紙を、父の思いを受け止める事ができず、
破り捨ててしまいます。
最終的には光邑先生が貼り合わせてもう一度研吾に手渡してくれ、
研吾もその手紙を受けとるのですが、
そこまでに研吾の心情を変えたのは父の真意たる手紙ではなくて、
父を思い起こさせる融の剣。
彼の中に自分の知らない若き日の父を見、
彼の剣に研吾がもともと持っていた剣道への思いを駆り立てられる。
研吾は剣の道に囚われ、剣の道に苦しめられたけれど、
剣の道に救われ、その道にしか己の生きる糧を見つけられなかったのだなあ。
小説が父の手紙を研吾の感情のピークにもってこなかったのは
文学作家としての優れたバランス感覚だったと思う。
けれど、映像の作品としてこの作品を組み直すときに、
ここにピークを持ってこなければ成立しないというのも
脚本家さんの優れたバランス感覚なんだろうと思う。
表現方法が変わると言うことはそういうことなんだろうと思います。
例えば、小説で言葉を尽くして説明しなければ伝わらない剣道の試合のやりとり。
こういう点では映像の方が得意で、まさに一見は百聞にしかず。
映像ですんなりと見せることができる。
この小説、慣れるまで読むのにすごく時間がかかったんだけど、
それは普段自分の生活では馴染みのない剣道のやりとりが
事細かに描写されているシーンを読み解くのに時間がやたらとかかったから。
けれども、その試合の細かい描写に登場人物の心情を乗せて
剣士たちの試合中の心理的な駆け引きを描写するには
小説という形式の方が圧倒的に有利になる。
映像ではモノローグで説明するか、解説を語る人物を配置しないと、
そこまでの内面は表現できない。
剣に生きる男たちの思いを、剣を通して描いたこの作品を
映像化するのはかなりハードルの高いチャレンジだったんだろうと思います。

脚本を担当した高田さんは文学作品を映像化するのがとても上手いですよね。
「そこのみにて・・・」の時も強く思いましたけど。
ストーリーやキャラクターというよりは
文書の力によって成り立っている文学作品から
映像作品として成立する要素を抜き出して組み直すのがとても上手い。
融が死に魅せられているという映画オリジナルの設定も秀逸ですよね。
原作では、過去に死にかけたという設定もありませんから、
もっと素直にシンプルに研吾の剣に魅せられる青年として描かれている。
今の自分ではとてもかなわない高みにいる一人の剣士として、
自分の中に眠る熱いものを解き放ち違うステージに連れて行ってくれる好敵手として
谷田部研吾という人間にこだわっていく。
でもこういう融の思いを描くにはどうしても説明が多くいる。
それを「死に魅せられた」という設定でクリアしてしまった。
それにこの設定は、どん底からスタートし、そこから立ち直るまでを描いた
映画の研吾の描き方にもとてもうまくはまる。
融が研吾にこだわるようになった大きなきっかけは
道場での研吾の大立ち回りなんだと思いますが、
原作にはこういう大立ち回りは出てきません。
原作では研吾は高校の剣道部のコーチですから、
あくまでも稽古の一貫として融と対峙する。
すでに再びアルコールに依存し始めていますから
酒が入った状態ではありますが・・・。
融が光邑先生に入れ知恵されて研吾から一本取るのは一緒。
でも、原作ではあくまでも研吾は剣道で融を滅多打ちにし、
融はその体験を通して研吾の剣に自分はとうていかなわないことを知る。
けれど、映画のこのシーンはすでに剣道じゃないですからね。
ただの大乱闘。
融に一本取られて怒り狂った研吾は、竹刀は折るわ、
自分を止めようとする高校生たちを蹴るわ殴るわすさまじい暴力。
修羅場ってこういうことを言うんだろうなあと思いながら見ていました。
でも融は剣道ではすらない、そのすさまじい暴力、破壊力に魅せられてしまう。
1回目見たときはそのすさまじさにただただ驚いていたのですが、
原作を読んで2回目見たときに、研吾が竹刀を折っていることの意味に気づきました。
私、子供の頃に少しだけ剣道をしていたことがあるんですけど、
剣道って本当に礼儀に厳しい。
道場に入る時と出るときは礼をするように言われますし、
竹刀の扱いは徹底的に教え込まれます。
跨いでもいけないし、ぞんざいに扱ってもいけない。
うちの子は二人とも西洋の方の剣士ですが、
剣袋の上を平気で跨いだので
「剣またいだらあかんやん!」
と言ったら
「へ?」
という感じだったことにびっくりしましたもん。
同じ剣でも日本の剣道とフェンシングでは全然違うんですね。

映画でも最初融が剣道部員に絡まれるのも、
融がバイクを避けようとして道に置いてあった竹刀を蹴ったことがきっかけでしたもんね。
その大切な竹刀を、何本も折ってしまう。
もうこれだけでこの男は剣を捨ててしまったんだなということが伝わる。
剣を捨ててしまったはずの研吾が、融の剣に父の面影を見、
剣道に対する拘りを取り戻していくきっかけになるシーンでもある。
原作にある場面を活かしながら、
映像としては全く違ったシーンを作る。
けれども原作が持っていた意味はできるだけそのままに・・・。
こういう工夫がとても上手い脚本家さんだなあと思います。

2回目を見た後には監督の舞台挨拶を見ることができました。
監督の舞台挨拶付きの上映だし! 
と張り切って朝イチでチケット取りに行ったんですが、
普通に買えたみたい・・・。
横に小学生のお子さんを連れた親子連れさんたちがいたのですが、
上映前に映画館の人が
「上映後に監督の舞台挨拶があります」
と告げると、普通にびっくりしたはったもん。
知らんと何気なくこの回のチケットを買ったんやね(^_^;)
というか、買えたんやね・・・orz
それにしても、あの親子はなぜこの映画を選んだんだろう・・・。
いや・・・いいんだけど・・・。
お子さんが剣道してるのかな?
お子さんがこの映画を見てどういう感想を持ったか、ちょっと気になる~。
R指定はかかっていないんだけどさ。
たぶん連れてきた親御さんもこういう映画だとは思ってなかったんじゃないかなあ・・・。
舞台挨拶に関しては、さっさと感想を書いておけばよかった・・・orz。
すでにだいぶん忘れてしまってます。
この日は大阪と神戸でも舞台挨拶があって、
京都が最後だったんですよね。
でも、最後だったおかげで、挨拶後サイン会がありました。
私は1回目に行った時にパンフレットを買ってしまっていたので
並ぶことができず残念・・・orz
まさかこんなおまけがあるとは!
前に買ったパンフレットでもいいですよとは言っておられたんですけど
持ってくるのを忘れてて・・・。
えーん、残念無念。
で、内容は・・・というと、他の舞台挨拶とほぼ一緒だったんじゃないのかな。
舞台挨拶が終わった後Twitterでツイート探したら
だいたい、ああそうそう! という内容が大阪や神戸の舞台挨拶に行った人からあがっていたので。
フランス(だっけ?)に勉強をするために行って、
それがとても辛かったらしいんですけど、
帰ってきた時に肉体を使って表現する映画を撮りたいと思っていたところに、
この映画のオファーが来て、この作品なら撮りたかった映画がとれるんじゃないかと思ったことや、
初めて虹郎くんにとある映画館で会ったときの話など。
若者らしくぐいぐい来る感じが、
研吾にぐいぐい迫っていく融のイメージにあった・・・という話。
事前のインタビューでも読んだ内容の話でした。
監督の話が一通り終わると、司会の方からいろいろ監督に質問がありました。
大半、忘れてしまいました(;^ω^)
アクションシーンが印象的ですが・・・という質問に
綾野君がアクションが得意な俳優さんで、現場でいろいろひっぱってもらった・・・っていう話があった気がする・・・うろおぼえ。

その後は質問タイム。
一番印象的だったのが
「役者さんは役によっていろいろ印象が変わるが、監督もそういうこと感じることはありますか」
という質問に
「綾野くんとは以前一緒に仕事をしたことがあるのだが、
時々、あれ? この人あの時と同じ人なのかな? と思う時があった」
という趣旨のことを答えられていたこと。
監督の目から見てもやっぱりそうなんだ・・・。
「夏の終り」の涼太とは全然違う役柄ですもんね。
そういえば「怒り」の宣伝で食わず嫌い王に出ていたとき、
やたらとタカさんに「殺人犯」って言われていたことを思い出しました。
言葉遣いはいつものように丁寧だし、
番組にもちゃんと積極的に参加していたし、
リアクションもちゃんとしていて、
いつもと変わらないスタンス、態度だったんだけど、
どこか隠しきれない不穏な空気を纏っていて、
もちろん髪型と髭が研吾仕様だったのでそのせいもあるんでしょうけど、
タカさんが「人殺してきてますから」なんて物騒な突っ込みしても
ちょっと納得しちゃうような雰囲気があったんですよね。
あの時、今何の撮影しているんだろう・・・って思っていたんですけど、
「武曲」だったんだなあ・・・。
そういえばそういえば、その変化、生で感じたこともあった!
「シャニダールの花」の舞台挨拶を見に行った時、
いっぱい話してくれていたのに、どこか気だるさというか、
負のオーラみたいなものを感じて、
疲れているのかなあ、仕事が余りにも立て込んでるもんなあと思っていたのが、
そのころ「そこのみにて・・・」の撮影中だったということもありました。
テンションあげて舞台挨拶をしていたけれど、
心は「そこのみにて・・・」の達夫に寄っていたんだなあ・・・って。
きっと撮影の現場ではもっとそうなんでしょうね。
決して役柄に乗っ取られているとかそういうことなのではなくて、
一生懸命役や作品のことを考えていると、
佇まいが役に寄っていくんだろうなあ。

あと、覚えている質問としては
「女性としては、研吾が最後に父親とのいい思い出を思い出して救われる
という場面で、その場にいるのが母親ではなく、
浮気相手の女性だったことに違和感があるのですが、
あれは母親ではいけなかったのですか」
という質問。監督は
「自分が男だからかもしれないが、自分はあそこが母親だと成立しないと思っている」
と答えられていました。
父親のダメな面を思い出して、そこに救われるというか、
そのダメな面を受け入れるということが大切な場面で、
これが母親(つまりは妻)だときれい過ぎる感じがする、と。
それから、監督の過去作(すみません、作品名を失念)と比較して、
その作品と描こうとしているものが似ているのだが
意識しておられたかという質問がありました。
その作品を私は見たことがなかったので、
結構込み入った内容で答えてらしたと思うのですが、忘れました・・・。
自分は結構アスリートでスポーツをずっとやっていたので、
アスリートのその後というか、
プロになれなかった多くの選手のその後みたいなものを描きたいとずっと思っていて、
この作品ではそういう観点も入れられるのではないかと思った・・・
と答えられていたのは、この質問だっけ?
なんかもう、すっかり記憶が曖昧だあ・・・。
あともう一つか二つ質問があったと思うのだけど思い出せない・・・。
こういう質問形式の舞台挨拶の時、京都ってあんまり質問出ないんですよね。
去年、岩井監督の舞台挨拶行った時も思ったんだけど。
シーンとしちゃう時間が長い。
あてられると結構いろんな突っ込んだ質問がでるんですけどね。
大阪の舞台挨拶だともっと積極的に手が上がる気がするんですよねえ。
京都の人はみんなシャイなんです。
とかいう私も、手を挙げられない方だしなあ・・・。
せっかく来てくださっているのに申し訳ないなあと思うのですが、
気持ちだけはとってもアゲアゲで聞いているので、
また京都にも来てください。

とまあここまで書いてきたんですが、実はここまでで2週間かかっています。
平日はほとんど何もできないからなんだけど・・・。
たぶん最後まで書いていたらあと1週間はかかると思うので一旦分けます。
どうでもいいことでずいぶん文字数使ってますね。
それは内容についていろいろ考えているんだけど
まだ形になり切っていないから、外堀を埋めながら書いてしまってるからだな、きっと。
というわけでその2に続きます。

フランケンシュタインの恋 最終話 その2

1話から見直して一番びっくりしたのは、
冒頭で研さん(このときはまだ単なる怪物)が
人を平気で触り、津軽さんを抱っこしてバス停まで運んでいることでした。
あれ? 研さん、この時は津軽さんに触れているやん!
というか、9話で手をにぎれた! というだけであれだけどきどきしたのに
1話でお姫様抱っこしてるやん!
ネット上にあがっていた感想やドラマ評で、この矛盾に触れているものもありました。
確かに矛盾と言えば矛盾なんですけど、
きっと何か筋の通った解釈があるはず・・・。
これだけ綿密に構成を考えて作ってある脚本なんだもん。
と、結構頭の中ぐるぐるしながら考えました。
身も蓋もなく、ドラマのテクニックとして機能しているというのはよくわかるんです。
冒頭部分での主人公紹介の場面。
主人公をどう登場させるか、どう見せるかという大切なシーン。
後ろ姿で登場させ、しかも夜のシーンなので
白く光る大きな手がとても目立つ。
その周りに飛ぶ胞子もきれい。
その幻想的な中で、触れるだけで乱暴な若者3人を倒してしまう。
そういう不思議な力、危険性を持つ存在としてとても印象的な登場シーンになっていました。
いわゆる、つかみはOK的なシーン。
放送当時もそういう見方していたので、
物語が進んでいくとすっかり忘れていたんですよね、このシーン。
いろいろ考えて、何とか自分の中で折り合いがついたのは、
怪物にとって人に触れることが禁忌となるのは、
人間の社会で暮らすことを望んでからだということなんじゃないかということ。
野生動物が自分のテリトリーを守るように、
怪物は森を自分のテリトリーとして
そこに不用意に進入してくるものに対しては
自己防衛的に無自覚にその力を使っていたんじゃないかな。
実際この直前に怪物は男たちの車に跳ねられています。
自分の森を荒らすものとして彼らを認識して攻撃しても不思議ではないですよね。
人に、特に津軽さんに触れてはいけない・・・というのも、
人間社会で暮らそうと決意してから自分で設けたタブー。
ただでさえ病気を持っている津軽さんを気遣う気持ちから
必要以上に「触れること」を避けたのでしょう。
9話を見た後、2話で語られた深志博士と怪物との会話
(自分は生きていた記憶も死んだ記憶もないってとこ)
とも整合性がないと感想を書いていた記事もあったのですが、
ここの整合性はきっちりとれていたと思います。
最初はサキさんの為に呼六を生き返らせようとしていた博士が
生き返らせようと努力しているうちに、
いつしかサキさんの為と言うよりは
自分が呼六を蘇らせたいと願うようになっていた。
その博士の反応として、
自分が何者かわからず不安で泣き叫ぶ呼六にああいうように接するのは
十分筋が通っているように思います。
かえって9話でさらっと語られてしまった博士が呼六を思う気持ちも
このシーンの印象が強くあるためにとても説得力があるものになった気がします。
深志博士は自分が再び命を与えてしまったことで
呼六が抱えてしまった苦しみ、これから向き合うであろう苦しみを
だれよりもわかっていたはずです。
それでも「おまえはこうして生きている!」と呼六を抱きしめながら言った。
その言葉から博士が呼六の命を慈しむ思いは痛いほど伝わりましたから。
このシーン、本当にいいシーンでしたね。
呼六は記憶をなくしてしまって、もう生前のままの呼六ではなかったけれど、
純粋で優しい心根はそのまま蘇った。
ほとんど白紙の状態の呼六に人間の基本的なことを教えながら過ごした日々は
深志博士にとって幸せな時間だったのかもしれないなと思います。
と同時に、呼六が人間の本当に基本的なことしか教わらなかったこと、
植物として孤独に生きることを博士から教え込まれたのは
博士が人間嫌いで人間を心から受け入れることがなかった
(サキさんと呼六を除いて)からなのかもしれないな。
だとしたら尚更、怪物として蘇った呼六は
博士が共に生きることができる唯一の存在だったのかもしれませんね。

残念ながら、このドラマはあまり視聴率を取りませんでした。
見逃し配信をあわせても、それほど伸びてなかったんじゃないかな。
ネットでの広がり方もそれほど大きなものではありませんでした。
見ていた人にはかなりの熱量で語られていたんだけど
いかんせんその範囲が狭かった。
私自身はここ10年のドラマの中で、
好きなドラマ10本の一つに入るくらい好きなドラマでした。
こういうドラマに出会いたくて、
ドラマを見続けているんだよなあ・・・としみじみ思うくらいに。
届く人にはちゃんと届いたんだと思うんです。
最終回後の感想をいろいろ読みましたが、
最終回、感動したという感想が本当に多かった。
でも、同時に、おもしろくなかった・・・というのも
結構目に付いたんですよね。
最終回翌日、職場でこのドラマの話になって、
最終回まで見たという同僚が
「わからんかった。なんか、ふうん、あ、そうという感じの最終回」
という感想だったのが、びっくりで・・・。
本当に同じドラマを見ていたのか? というほどの感想の違い。
でも、それはネットで二分された感想と同じなんですよね。
たぶん、このドラマは受け手の見方に大きく左右されるんだろうと思います。
私はこのドラマは登場人物がかなり丁寧に自分の気持ちを話すドラマだと思うんですけど、
でも語る言葉がちょっとズラしてあったり、ストレートな言い方をしてなかったり
もしくは後の展開で生かすために特殊な言い方をしていたり。
ドラマの登場人物は日常の言葉を使って話すもの、という認識でいると
このドラマの台詞はしっくりこなかったろうなあと思います。
私も最初はなんでこういう台詞なんだろうと何回も思いましたもん。
脚本家が書くときに何らかの縛りを自分に課して
ちょっとひっかかる台詞回しを選んでるんだろうか・・・って。
でも、今まで大森さんの作品を見てきたけれど、そんなこと感じたことはなかった気がするので
やっぱりこのドラマ用に選んだ言葉だったのだろうなあ。
一つには、終わりまで物語の構造をかっちりと決めておいて
その結末に向かって序盤の台詞が組んであるのかなあという気はします。
例えば序盤で悩む研さんにラジオを通して鶴丸教授が言った言葉
「恋をして遺伝子の革命を起こすのだ」
というのも、この段階では、は? としか思えない。
「恋」と「遺伝子」と「革命」という単語が通常はかけ離れたイメージを持つ言葉なので、
それらをくっつけて、さも当然のように言われても、ちょっとピンと来ない。
しかも、科学の研究者の言葉らしくないですよね。
抽象的すぎて。
下手したら怪しい系の科学みたいに聞こえちゃう。
でも、研さんが枯れ木にきのこをいっぱい生やして
「僕が革命を起こします」
って言ったり、
津軽さんの病気を研さんが治したときに、稲庭先輩が
「研さんが津軽さんの遺伝子に革命を起こしたんだ」
って説明する頃になると、言葉がだんだん馴染んできて、
ああ、そういうことかと何となく納得できる。
でも、当然こういう言葉の使い方に違和感を感じる人はいるだろうと思います。
こうした大仰に聞こえる言い回しや、なじみのない言い回し、
よく使う言葉でもこのドラマの中で微妙にずらして定義してあったり、
会話がきれいにかみ合ってなかったり。
研さんは人間社会に不慣れという設定なので仕方ないと思うのですが、
他の人もそういう話し方をするので
ぼーっとしていると台詞が頭にすんなり入らない
という人も多かったのではないかと思います。
また一つの台詞に幾通りにも意味が重ねてあったり、
逆に核心をあえて外した言い回しをしている所も多いので、
登場人物の気持ちをつかみにくい。
あれほどみんな雄弁に自分の思いを語っているのに・・・。
でもそれはきっとねらいで、
人間を多面的に捕らえて描いているからこそ
そういう言い回しにならざるを得なかった面はあるんだろうなと思います。

話の構造も最終回まで見ると、なるほど実に綿密に組んであるなあと思うんだけど、
序盤の展開がちょっとまどろっこしいんですよね。
「自分は人間の世界で生きてもいいのか」という問いから始まって
「怪物は恋してもいいのか」
「恋する人を守るためには強くならないといけない」
「強くなるために人間を知らないといけない」」
「人間を知るためにはラジオに出るのが一番」
という展開が前半の中心になるんだけど、
一般の感覚では「恋をしてもいいのか?」という段階で
3、4話費やすこのドラマのテンンポに
ついていけなかった人もいるんだろうなと思います。
人間ではない、異形の存在が人間に恋をするにはこれだけのまどろっこしさが必要だったのだろうけど。

それに加えて、このドラマが抱えている一番の弱さは
ヒロインの魅力のなさなんですよね・・・。
これだけは如何ともしがたい。
初回は魅力的なんですよ。
結構積極的に動いているし。
それからサキさんも魅力的。
でも2話から病気で倒れるまでの津軽さんがどうにもまどろっこしかった。
この人にも感情移入できないとやっぱり作品の魅力としてはそがれてしまいますよね。
物語の構造が研さん中心に作られているので、
研さんの心情を丁寧に追って、しかもこのファンタジー世界を成立させることに主眼が置かれて、
津軽さんの描写はそれにあわせるために弱まってしまったように感じました。
津軽さんの快活さ、真実を知りたいという探求心、行動力は
研さんを山から連れ出すという為に使われた後は、
物語の進行のために押し込められてしまいました。
病気だから恋ができない。
研さんの思いをどう受け止めていいのかわからないからどうしても受け身になる。
その結果として、中盤はずっと、研さんが世界を広げようとがんばっているのを
見守るだけの母親のような位置に納まってしまう・・・。
津軽さんが病気設定というのは物語上絶対的に必要な要素だし、
津軽さんがいったんは研さんの母親のポジションになるというのも
やっぱり物語の進行上どうしてもいる要素だったのだと思う。
けれども津軽さんというキャラクターをもっと魅力的なものにするために
もう少し工夫はいったのかなあと言う気がする。
脚本的にも演出的にも。
津軽さんが単なる病気持ちの優等生キャラになってしまったのがとにかく残念。
津軽さんが跳ねる要素はあったと思うんですよね。
美琴とのやりとりとか結構ズバズバ言ってたし。
時々、ずばっとつっこみを入れる強い感じも、
もっと膨らませたらおもしろかったかも。
ラブストーリーでもある以上、ヒロインが魅力的ではないと言うのは
かなり残念なこと・・・

でも私が思いつくこの作品の弱点ってこれくらいで、
それを補ってあまりある魅力的な作品だったと思うんです。
あとは受け手側がこの作品をどう見たかという問題。
職場で同僚と話していて思ったことは、
今までのつながりとかあんまり考えずにドラマで今起こっていることを
そのまま受け取っているのかもな・・・ということ。
例えば最終回だと、
研さんが津軽さんの手を握りました。
津軽さんの不治の病が治りました。
研さんと津軽さんが抱き合いました。
でも研さんは警察と保健所から逃げて森に帰りました。
1年後津軽さんたちと再会しました。
数十年後、津軽さんは死んだみたい・・・
くらいの流れだけ見て、
で? だからどうしたん? という思いで最終回を見終わったらしい。
ながら見してたりするとその事実すら把握せずに抜ける部分もあり・・・。
確かに、ただのラブストーリーとして見ると
抱き合うシーンが数回、手をつなぐシーンが数回。
最終的に愛する二人は結婚しましたみたいなわかりやすいハッピーエンドじゃないぶん、
なんなんだこれは、と思われてしまったのかもしれない。
そういう人には安易でご都合主義な解決と、
SFくずれのストーリーに見えちゃうかもな
という気はしました。
みんながみんな一生懸命見ているわけじゃないから・・・TVドラマは。
そういう層をも物語に引きずり込む・・・ところまではいかなかったのかな。
残念だけど。

終盤の展開がご都合主義に見えた一つの要因は、
この物語がある種「青い鳥」的な要素を持っているからですよね。
研さんの自分探し的な要素は、
深志博士のノートを見つけたことで記憶が完全によみがえり解決します。
でも、そのノートは120年暮らしていた家の中にあったわけです。
孤独に生きていた研さんの直ぐ側に。
また、津軽さんの病気の特効薬は、研さんの赤いきのこを出す心。
これもまた、津軽さんに初めて会った時から赤いきのこを出しているのですから
解決策はずっとはじめからすぐ側にあったことになる。
でもこの物語は、そこにたどり着くまでの物語。
紆余曲折を経てそこにたどり着きさえすれば、
答えはおのずから用意されていたわけですから
安易な風に見えてしまったのかな。
これはもうドラマの好みの問題でもありますよね。
私はジェットコースター的に話がどんどん展開して、
登場人物の心情を考えたり意味を考えたりする余地も与えず
とにかくどんどん話を転がしていくタイプのドラマは苦手なんですが
そういう筋のおもしろさ、奇抜な展開を楽しむ人は
この作品のようなドラマは苦手なんだろうと思う。
万人に受けるタイプのドラマではないので仕方ないとはいえ、
でも、もうちょっと注目されてもよかったのになあとは思います。
ただ、とにかく制作陣がいっさいぶれなかったので、
作品としてきれいに完結することができてよかった。
これで世間の評価を気にしたり、
批判に媚びて話に手を加えたりするととても残念なことになっちゃうんだけど
そうならなかったのが何よりも嬉しい。

綾野くんのファンとしては、
この作品で一つ夢が叶ったなあという気持ちが、今しています。
わたし「ヘブンズ・フラワー」で綾野くんが演じたシオンという役大好きだったんです。
でも話自体がちょっと迷走しているところがあって、
本筋の部分であまり好きになりきれなかった。
当然シオンの話は脇で断片的に語られるだけですから
見直すにはいまいち納得できない本筋をどうしても見直すことになるので
なんとなくレンタルで見たきりになってしまっています。
だから、この作品、シオンのお話としてがっつり見たかったんですよね。
結構そういうことって多くって、
他にも「クレオパトラな女たち」の黒崎裕や
「八重の桜」の容保公など・・・
もっともっとこの人を見ていたい、
この人の物語を感じていたい、
そう願うことがとても多かったんですけど、
そういう思いを今回は存分に叶えてもらったなあと言う気がしています。
もちろんTVドラマで主役は今回が初めてじゃなくて、
ダブル主演も含めるともう3回目だし、
作品の評価としては「コウノドリ」のほうがしっかり結果がでているし、
もちろんサクラ先生も大好きなんです。
でも「コウノドリ」はサクラ先生が主役だけれど、
作品の本当の意味での中心は妊婦さんや出産の現場そのもの。
綾野くんもそのことを十分踏まえた演技をしていると思う。
一方、「フランケンシュタインの恋」は主役の怪物が物語の中心。
本当の意味でがっつりと綾野くんが作り出したキャラクターを見ることができた作品でした。
綾野くんの演技をじっくり見て感じることが
そのまま作品そのものの解釈にダイレクトにつながっていく快感。
物語の中心に常に綾野くんが演じるキャラクターがいる幸せ。
しかもそのキャラクターが実に魅力的で・・・。
綾野くんの作り上げたキャラクターを心ゆくまで堪能できる
本当に楽しい3ヶ月間でした。

毎週配信されるオーディオコメンタリィで
綾野くんの生の声を聞けたのもとても楽しい体験でした。
結構みんなオーディオコメンタリーになれていなくって、
思わず見入っちゃって黙り込んじゃうなかで
すごく的確に他の人に話を振りながら
みんなの言葉を引き出していたのがすごいなあと思いました。
考えてみれば、私あんまりDVDを買っていないこともあって
綾野くんのオーディオコメンタリィを聞いた覚えがなくって。
唯一記憶にあるのが「シュアリー・サムデイ」のビジュアルコメンタリィ。
コメンタリィに慣れていなくてなかなか話せなかったり、
やった、しゃべった! と思ったらみんなに突っ込まれてたり・・・
って感じだったと思うんですけど、
それから思うと、格段に成長しててなんだか感無量。
あれから7年でここまできたんだなあ・・・。
座長として現場で綾野くんがどういう立ち位置でいるかが
なんとなくかいま見られたのもおもしろかった。
ゆるいリーダーシップと決して押しつけがましさを感じない気遣い。
何よりも自分ががんばることが現場の志気をあげるという揺るぎない信念。
斎藤工さんが言っていたのはこういうことなんだろうなあ。
綾野くんを見ていると、今まで自分が抱いていた主役観、役者観が大きく変わりました。
役者という仕事は途中乗車で途中下車って言っていたのは
豊川悦司さんだったか堺雅人さんだったか・・・。
役者さんは企画やストーリーを作る段階では参加できない訳です。
基本的には台本を渡されたところから仕事がスタートするわけですから。
そして、一生懸命演じたその先に関わることも、できない。
自分はこう演じたつもりでも、
カメラがどう映すかの選択はできない。
渾身の演技をしても編集でカットされるかもしれない。
思いもしないつなぎ方をされるかもしれない。
このドラマでも綾野くん言ってましたよね。
最後の飛行機が降りてくる場面。
ああいう飛行機が登場するとは思いもしていなくって
降りてくる様子を見守っているカットは飛行機じゃなくて
人が降りてきているんだって思ってましたって。
だから今まで贔屓の役者さんが作品に恵まれなかった時には
しかたない、脚本が悪かったんだ、演出が悪かったんだ、
果てには、企画そのものが悪かったんだ・・・って思っていたんですよね。
役者にできることは限られていて、作品の責任を役者だけが背負うのはおかしい。
でも、途中乗車、途中下車でもやれることは案外あるんじゃないか
と綾野くんを見ていて思います。
そしてその綾野君の思いや努力がちゃんと作品に反映していくのを見るのは
ことの他楽しい。

作品を見ているだけでは伝わりきらない裏側の雰囲気をかいま見せてくれたという意味でも
オーディオコメンタリィは面白かった。
基本的に内容に沿って話しているのってそれほど多くはなかったんだけど、
いくつか演じるときに思っていたこと、意識していたことも話してくれていて
それによって次回以降の、もしくは見直したときの解釈を助けられることも多かった。
研さんは稲庭工務店の食事の時に、基本的にはものを口にしない、とか
天草とラジオに出ていた回で
「こんにちは、フランケンシュタインです」の言い方を変えているとか。
特に後者は3回目の時の言い方は1回目と違うということは気づいていましたが、
単純に、慣れてだんだん自身が付いてきたから
大きな声になって明るい言い方なのかなって思っていたんですけど、
あれは天草さん言い方にだんだん近づけたそうですね。
そういう演技的な工夫のあれこれを聞けたのも楽しかった。

最終回まで見てふと思ったのは、
コメンタリィを通じて、結構この作品の見方を誘導されていたんだな。ということ。
私、コメンタリィを見ていなかったら、
稲庭先輩の見方がずいぶん違っていたかもしれないなと思います。
プロデューサーさんも結構早い段階から
稲庭先輩は人間らしい部分を背負っているという情報を出していましたっけ。
稲庭先輩の二面性は序盤からずっと描かれていくんだけど、
あんまり露骨に描かれはしないんですよね。
もし、プロデューサーさんのインタビューも知らず
コメンタリィも聞いていなかったら、
あれ? 稲庭先輩っていい人に見えて実は悪い人じゃない?
っていうことに気づいて、そこで解釈が止まってしまっていたかもしれません。
でも、コメンタリィで
「ほら、ワル庭先輩になってますよお」
ってあおっているのを聞いていたら、
あれ? そんなに言うほどワルいかなあ・・・ってあまのじゃくな気持ちが働いて
稲庭先輩の嫉妬と愛情の間で揺れる思いに気づけた気がします。
人間はいい人、悪い人で単純に分けられるわけじゃなく、
一人の人間の中にいい面も悪い面も共存しているものだ
というのがこの作品のコンセプトだとしたら、
そこに上手くたどり着けるように導いてもらえた。
出演者のみなさんにとっては、とても負担が多かったでしょうが
オーディオコメンタリィは本当に面白い企画だったなあと思います。

綾野くんの演技、表情の変化をグラデーションという表現を使って表現したのは
「武曲」の原作者さんでした。
確かに「武曲」でも見事に研吾の変化を表情で表現していました。
「フランケンシュタインの恋」でも、やっぱり表情の変化が見事なグラデーションになっていたなあと思います。
ずーっと回を追って見ているときにはそれほど気づいていなかったんですよ。
研さんの成長によって、徐々に徐々に変わっていたから。
9話になって、記憶を取り戻した研さんが急にぐっと大人びて、
この回は生前の呼六との落差もありましたから、なおさら
あ、すごい、変化が微妙な表情の違いではっきりわかる!
と驚いたのですが、このタイミングで1話から見直したので改めてびっくり!
初回冒頭の研さんって、とても表情が乏しいんですね。
ある種、人間っぽくないというか、森の精霊という感じの生々しくない表情。
どこか寂しげなんだけど、それが人間らしい感情を感じさせないぎりぎりのところで押さえてある。
自転車で山から降りてくると、とたんに表情が豊かになってくるんだけど
それでもまだどこかおずおずと感情を顔に出している感じ。
一人でいるときは結構素直に感情を顔に出しているんだけど。
それが3話くらいから急速にだれに対しても表情豊かになってくる。
でもそれは本当に子供らしい表情なんですよね。
嬉しいときは嬉しい顔、悲しいときは悲しい顔。
素直で純粋な研さんの表情。
けれども回を追うにしたがって、少しずつ複雑な表情も増えて来て、
記憶を取り戻すと、ぐっと青年の顔に変わっていく。
このグラデーションの描き方が本当に見事。
私、最終回の研さんが大好きなんですけど、
自分のことがわかって、自分が置かれている状況もしっかり理解した研さんが
夜の川縁で津軽さんを抱きしめながらとても寂しい瞳をするんですよね。
このシーンと、
1年後、崖から転げ落ちる津軽さんを思わず助けて再会するシーンの表情が大好き。
最終回になってようやく本当のラブストーリーになったなあって思いました。
いや、今までもキュンとは来ていたんですけど、
そのキュンは子供にたいする「かわいいなあ」キュンと一緒。
ラブストーリーとしてのキュンは最終回だったなあ。
自分の運命をきちんと理解した研さんが、
津軽さんと一緒には生きられないと悟ってしまった切ない目。
綾野剛の本領発揮といったところでしょうか。
綾野くんには切なさがとても似合う・・・。
すっかり大人びた研さんが、
津軽さんや稲庭先輩や鶴丸教授が自分の生きる場所を作ってくれたのが嬉しくて
子供みたいにポロポロ涙を流す。
中盤の子供っぽい研さんじゃなく、
すっかり大人な研さんが子供みたいに泣くからこそ
その落差が胸に迫る。
エンディング後の数十年後の研さんは
姿形こそ昔のままなのに、ちゃんと年輪を重ねた木のような重みを感じさせてくれました。
不老不死の研さんにも、ちゃんと月日は流れているんだ・・・。
そういう変化を、きちんと表情と佇まいで感じさせてくれた。

深志研という役は本当に作り込まれたキャラクターだと思います。
でも、その変化は誇張され過ぎていない繊細な表情の違いで表現されていて
それがこの物語を支える一つのリアリティになっている。
このドラマは綾野剛の演技を堪能できる作品だなあと思います。
でも、綾野君の幅広い表現を知っているから
どちらかというとsweetな役柄だった研さんを十分堪能したら
今度はまた違った味を堪能したくなるのがファンの性なんですよねえ。
思わず「武曲」3回目見に行っちゃいましたもん。
「フランケンシュタインの恋」が終わったあと直ぐに
「亜人」の予告とポスターが公開されたのも嬉しかった。
「フランケンシュタインの恋」では不器用そうにトテトテ歩いていたけど、
実は身体能力がとても高い綾野くん。
機敏な動きで佐藤君と相対する殺陣、楽しみだなあ。

いつまでも思いつくままに感想書いているわけにもいかないので
最後に衣装の感想。
研さんの衣装、秀逸でしたよねえ。
森の中では見事に風景にとけ込んじゃうのに
町中ではすごく異質観を感じさせる衣装。
まさに研さんの本質をそのまま形にしたような衣装で、見事でした。
コートの裾の翻り方もきれいだったなあ。
「シャニダールの花」で白衣の裾の翻り方にこだわった澤田石さんなので
きっとこのコートも工夫に工夫を重ねてああなったんだろうな。
今、この衣装が展示されているそうで・・・。
こういう時は、ほんと、東京はいいなあと思います。
仕方ないので、行かれた方がアップされている画像を見て
心を慰めています。
袖口のモフモフかわいい・・・。

この三ヶ月、本当に、本当に楽しい時間を過ごせました。
このドラマを作ってくれたすべての人に感謝します。
ほんとうにありがとうございました。













フランケンシュタインの恋 最終話 その1

なんか最終話の感想書くのさみしいな。
書いてしまうと本当に終わってしまう気がして。
いや、私が感想書こうが書くまいが、もう終わったんだけどさ。
最後のオーディオコメンタリー聞いて、
聞く前は打ち上げの時にみんなでワイワイ収録したかな?って思ってたので
スタッフさんだけということで、ちょっとしょんぼりしたんだけど、
(でもこれはこれで今までとは違う角度から話が聞けておもしろかった)
途中で綾野君が参加してくれて、なんか本当によかった。
だいたいこのコメンタリー自体、番宣の為なんだから
最終回が放送された後、最終回分の放送をする必要性はないはずなんだけど、
それでも最後まで・・・ときちんとやってくれるスタッフ優しいなって思ってて
そこに
「ちゃんと最後まで関わらせてっていったでしょ」
って打ち合わせを終えて参加してくれるその心意気が嬉しすぎて・・・涙。
最後の最後まで優しいドラマだったなあと思います。
お地蔵さんの横に立っていたあの大きな木は
半分本物、半分スタッフさんの手作りだったそうで4日かけて作ったんだとか。
幹は本物を植え込んで枝はスタッフさんの手づくり。
でもその木ももう今はない。
6月18日に撤去されたそうです。
研さんのあの凝りに凝ったおうちも、今はもう、ない。
天窓の所に鳥の巣が作ってあったっていうの、すてきですよね。
映るかどうかわからない、でも、研さんの日常を一生懸命考えて
物語を自分の中で膨らませて、作る。
そういうお仕事なんだなって思いました。
そして、それだけ手塩にかけて作ったセットも、小道具大道具も
撮影が済めば跡形もなく消えてしまう。
寂しいけれど、でも物は消えてしまっても、映像作品として残りますもんね。
もっと言えば、ドラマを見ていた私たちの記憶にはずっとずっと残る。
いつもはドラマを陰で支えている人たちの生の声を聞けておもしろかったです。

さてさて、最終回、本当に大団円で、
でもなにもかもがハッピーエンドではなくて
最後にちょっと余韻を残したところが秀逸でした。
ドラマの最終回って結構おもしろくないことが多いんですよね。
今まで広げた風呂敷を畳むのに終始することが多いから。
時には、あらかじめ予定された最後の感動シーンに持って行くために
今まで連続ドラマで積み上げてきたものを台無しにするようなドラマもあって
そういうときは、本当に興ざめしてしまう。
そういうドラマに遭遇すると
今まで3ヶ月にもわたって見続けてきた自分を本当に悔やみます。
そこまでではなくても、最終回を見たらつきものが落ちたように
そのドラマに対する関心や熱をすっとなくしてしまうようなものもある。
このパターンって結構多いかな。
逆にエンドがこちらの予想を超えていたりすると、
そのドラマはずっと心の中に刻みつけられていく。
このドラマに関しては、エンドが完全に予想を超えていました。
研さんが森に逃げるまでは、予想の範囲だったんです。
ここまでは今まで描いてきたあれこれを畳んでいっているなあという感じで。
でも、1年後、数十年後の展開が完全に予想を超えていて
そしてそれがとてもとてもこのドラマに似つかわしい物でした。

まずはある程度予想通りだった前半の展開。
社長の言葉は本当によかったなあ。
覚悟を決めた男はかっこいい。
仕事が来なくなって稲庭工務店が立ちゆかなくなったとしても
研さんとの人間関係を優先した社長。
確かに社長の選択としたらそれはだめなんだろうけど、
それでもその覚悟で従業員をいわれのない誹謗中傷から守るっていう心意気。
久々の「めんどくせえ」で稲庭先輩がちゃかしてしめちゃったのも含めて
すごくいいシーンだったなあ。
その後は保健所と警察が来たときに、本当に研さんを守ろうとしてくれましたよね。
保健所の職員に仁王立ちになって毅然と対応する社長のかっこよかったこと!

天草さんはラジオ、とうとうクビになっちゃいましたね。
でも、十勝さんとリリエさんが天草さんを守ろうとしてくれました。
この二人の心境の変化も嬉しい。
自分は実は怪物を利用していたのだと告白する天草。
でも、最後まで怪物が好きだったって言ってくれた。
人の心には悪い部分もよい部分もあるということを
ずっと描き続けてきたこのドラマ。
そうだよね、だから人間っておもしろいんだよね。
逃亡したフランケンを応援して、天草ソングをかけてくれる十勝さんとリリエさん、すてき。
東京と山の中で天草さんと研さんの歌声が重なる。
天草さんはあの時東京の歩道橋の上で行方しれずの研さんのこと考えてたんだと思うし
研さんは山で天草さんとのあれこれを思い出して楽しそうだった。
きっと研さんの言う「心は繋がっている」っていうのはこういうことなんだね。
そして騒動以降ラジオ局側に立って、研さんを利用して局を守ろうとした牛久も
つまりは彼も天草さんのこと大好きだったんだ。
天草さんと一緒に怪物と呼ばれるようなすごい番組を作りたかったと告白しました。
こうして最終回まで見てみると、この牛久さんのぶれ方や行動も
実に人間くさかったなあ。
最終的に天草さんもラジオの世界に戻れましたしね。
やっぱりお悩み相談をしているようですけど、
でも、ちょっとその対応が変わったようです。
奇抜な意見を言いがちだったのが、
相談相手にきちんと向き合って答えられていた。
人が怖くて外に出られなくなったという人に向けて
外を森だと思ってみれば? とやっぱり独特の切り口ではありますが、
人も自分を怖がっているかもしれないと思って、
自分が声をかけて欲しい言葉をかければいい、
というのはやっぱり研さんとのあれこれが優しく影響しているのかなあ
なんてほんわかしてしまいます。

そして、そして、先輩の「みことーっ!」よかったですね。
美琴ちゃんんがかわいかっただけに、
その思いが報われてよかった。
本当にすべてが優しく収まるべき所に収まって・・・。
先輩もなんか嫉妬に駆られているときよりも自由になっている感じがして
みんなにとってよい収まり方でした。

研さんが森に帰るというのは想定内でした。
予告が予告だったし。
後は時間が飛んで、津軽さんが子供の手を引いて研さんに会いに来るかなあ
くらいのラストを予想していました。
研さんと津軽さんがハッピーエンドを迎えるという気は全然しなかった。
このドラマにハッピーエンドがあるとしたら、
研さんの死が幸せな形で描かれることだと勝手に思いこんでいたので。
でもその勝手な予測、完全に逆になりました。

まず、研さんが、森に帰り、
そのことに気がついた津軽さんから身を隠すように
120年馴染んだ森から立ち去ったところから、1年後。
稲庭先輩がネットで研さんのきのこを見つけます。
そこに研さんがいる! と津軽さんがその山に探しに行きます。
結構さっさときのこが見つかっちゃうのはご愛敬。
最終回で、しかも「1年後」でそんな所に尺をかけていられません。
きのこを取ろうとして崖から転がり落ちる津軽さんを
研さんがさっと現れて助けます。
ここ、津軽さんの転がり方が1話のサキさんと一緒だなあとは思っていたのですが、
コメンタリーを聞いて、
120年前には転がり落ちたサキさんを殺してしまった研さんが
今度は津軽さんを救ったことに気づきました。
サキさんにしたこと自体は取り返しがつかないけれど、
今度はちゃんと助けられてよかったね、研さん。
研さんはちょっと困ったような
(津軽さんから隠れていたのに見つかっちゃったからね)
照れくさいような、でもやっぱり津軽さんのことが愛おしくて仕方ないような
そんな目で津軽さんを見つめます。
前半、というか研さんが記憶をなくすまでは
研さんからの一方的な愛の告白が多かったんだけど、
ラスト3話くらいは津軽さんが今までため込んできた思いを吐き出すかのように
研さんに「好き」という思いを繰り返し伝えますね。
研さんはそれを優しく受け止める側に・・・。
もう躊躇なく津軽さんを抱きしめられる姿を見ているとキュンとします。
でも、この物語が本当に優しいのはこの後。
山には鶴丸教授や稲庭先輩も来ていて、研さんをキャンピングカーに連れて行きます。
放送時、「彼氏とキャンプ中」に使っていいよと
公式Twitterさんがつぶやいていた屋外用のテーブルとイス。
写真の中で怪物さんと稲庭先輩が仲良くお茶してました。
てっきり、山での撮影にはこんな道具も持ち込んで撮影しているんだ!
って感心していたのですが、
このシーンでいる道具だったんですね。
キャンピングカーの中で、研さんはこの3人が1年間考えてきたプランを聞かされます。
このキャンピングカーを使って、研究室の支援を受けながら、
研さんは研さんの研究をする。
そしてそれを難病治療に役立てる、というもの。
9話放送くらいから、1話からもう一度見直すということをやっていて
驚いたことがいくつかあるんですけど、
その内の一つが、研さんの最初の望みは「新しい自分を見つけること」だったということでした。
その後の恋バナやごたごたですっかり忘れてましたが・・・。
つまりはこのお話はある種研さん、つまりは怪物の自分探しの物語でもあったわけです。
自分が何者であるかという問いは、8話で記憶を取り戻すことで解決しました。
そして研さんが出した結論が、自分は人間の社会で生きていくことはできない、でした。
大切な人たちに迷惑をかけたり、傷つけたりしてしまうから
だから研さんは森に帰って行った。
そんな研さんに新しい生き方、人間と関わる方法を
三人が見つけてくれたのです。
生前の呼六さんの思いと、怪物となった研さんの思いをくみ取って
研さんならではの、研さんにしかできない生き方を。
鶴丸教授は優しいから、
「これは我々の為でもあるんだ」
と言ってくれます。
確かに、研さんが生み出す菌の可能性を、
研究者ならば見過ごせないという気持ちは本当なのだと思います。
研究者として成功する可能性もあるわけですから、
ある種研究者のエゴから出た提案でもある。
でも、そのエゴの部分をきちんと研さんに説明するのも
やっぱり鶴丸教授の優しさだと思うんですよね。
鶴丸教授はずっと研さんの「心」を肯定していて、
それはもう1話の段階から、「彼の心は人間そのものだ」と言っていたし、
8話では「深志博士が信じた君の心を信じる」とまで言ってくれた。
なんでこの人はそんなことまでわかるんだろう・・・
なんでそんなに断言できるんだろうと思っていたのですが、
きっと鶴丸教授は深志博士のことを知った時から
研さんを、望まずして人体実験をされたかわいそうな被験者として
見ていたんだろうなあ・・・と思います。
研さんをこういう視点で見ている人物は、鶴丸教授の他にはいない。
すると見えてくる事実も、きっと他の人とは違うんだろうと思うんです。
他の人の関心が、研さんがほんものの怪物かどうか
どのくらい危険なのかに関心があるのに対して、
きっと教授は深志博士に共鳴する形で物事をとらえていたんだろうなあ。
同じ研究者として、未知の菌を手に入れたら
それを人体実験してみたいという気持ちはわかるんだろうと思う。
実験しなければ、理論が正しいかどうか証明できませんもんね。
でも、そこは科学者とマッドサイエンティストとの違い。
実際に人体実験に踏み切るのには大きなハードルがある。
生きている人間に投与するのではなく
死人に投与するという意味でやりやすかったのかもしれませんが
それでも、生き返らせてみて、彼が人を殺す恐ろしい怪物だと知って
自分がしたことの恐ろしさを感じたのかもしれません。
結局、博士は、呼六以外にこの驚異の施術を行うことはありませんでした。
呼六が生き返ったことを単純によしとしていたら、
不死身の命をどこまでも追求するのなら、
愛するサキさんを蘇らせることもできたでしょうし、
呼六に教え込んで、自分の肉体を再生してもらうこともできたかもしれません。
でも彼はそうしなかった。
一方で、生まれてしまった怪物に対しても、
危険を理由に彼を抹殺するようなことはしませんでした。
ただ、人間に近づくな、森で植物のように生きろと教えただけ。
その辺りから推測して、鶴丸教授は研さんの心を信じるようになったのだろううと思います。
そして実際に子供のように純真な研さんに接してみてそれは確信になった。
だから鶴丸教授は研さんを
望まずして人体実験の被験者にされて、永遠の命を与えられ、
そのことに悩み苦しんでいる気の毒な若者として扱った。
科学者として彼を救済することは必然だと思えたんでしょう。
放送当時は、違和感の方が大きかった研究室パート。
物語のバックボーンの説明にに必要なのかな・・・
程度の認識で見ていましたが
見直してみると、突飛に思えていた鶴丸教授の言葉が、
きちんといろんな所にはまっていく。
何より、研さんの居場所として最終的に大きく機能させるために
あの研究室は描かれていたんだなと思うと胸が熱くなる。
研さんの「研」は研究の「研」ですもんね。
呼六さんが難病をなくしたくて菌を研究した深志博士に弟子入りしたこと
研さんが「人の役に立ちたい」と願ったこと、
そしてそれは津軽さんと願いと一つになって、
一緒に生きていくことができる手段でもあって
なんて、なんて優しい結末だろうと思いました。
ここにたどり着くために、今までのあれこれはあったのだと、思いました。
話を聞いて子供のように涙を流す、研さん。
よかったね、自分らしく生きる場所が見つかって。
後日談として、大きなよい木を見つけて、津軽さんを呼ぶ研さんの姿。
心なしか、今までの研さんよりずっとしっかりして大人っぽい声。
二人手を合わせて、研さんが木に菌を注入します。
優しい菌がふんわりと木から空に舞って、
その下を幸せそうに手をつないで歩いていく二人・・・
なんて完璧な大団円なんだああああああ。
と感動にうち震えてのエンディング。
ああ、このエンディングも最後なんだと思いながらも、
実はほんのちょっと心に何かひっかかっていました。
津軽さんに触れられるようになった、
津軽さんと幸せに暮らせるようになった、
人とつながりながら暮らせる新しい生き方が見つかった
すばらしい終わり方なんだけど、
思いもしなかった優しい終わり方なんだけど、
なんかきれい過ぎないかい?
いや、いいんだけどさ、研さんが幸せならば。
でも、ほら、もともと私が空想していたハッピーエンドの形が
研さんが死ぬことだったものですから、
不老不死の扱いにちょっと引っかかっていました。

とか思っていたら、エンディングの後に数十年後の映像が!!
賛否はあったみたいですが、私、あの飛行機よかったと思います。
数十年後の世界にドンと視覚的に連れて行ってくれた。
ある意味本当に一目見てわかる未来になったので。
そこで描かれたのは、稲庭先輩と美琴の孫が研さんを尋ねてくるエピソード。
それで明らかになったのは、
稲庭先輩と美琴が結婚していたこと、
その孫がちゃんと稲庭先輩の仕事を継いでいること。
(稲庭工務店はきっと美琴ちゃんが引き継いだんだろうなあ)
そして、1年前に津軽さんが亡くなっていること。
稲庭先輩がおじいちゃんになっているわけですから
きっと鶴丸教授もとっくの昔に亡くなっているのでしょう。
でも、研さんは研さんの姿のまま・・・。
津軽さんは研さんを残して逝ってしまいました。
直に他の研さんの知り合いも、研さんを残してみんな逝ってしまうでしょう。
研さんだけが終わらない人生を生き続ける。
研さんは今も菌を生み出して研究する生活を続けているようです。
たった一人、あの森の家で。
ラストは木に菌を植え付けた後、森の中に消えていく研さんの後ろ姿。
研さんが立ち去った後、木ににょきっと赤いきのこが二つ。
研さんの恋の象徴である、赤いきのこ。
研さん、津軽さんのこと思い出したかなあ。
津軽さんの気配をどこかに感じたかなあ。
この余韻がズシンと心に響いて、それが時間が経つほどに大きくなっていきました。
このドラマは、研さんにこの上もない幸せな一つの結末を与えたけど、
不老不死という重い宿命からは研さんを解放しなかったのだなあ。
それはある意味、フランケンシュタインという題材を扱う上で
一番大切な要素から逃げなかったということでもある。
たぶん、この要素をおざなりに扱われたら、
この物語はもっと陳腐なものに成り下がったのだろうと思う。
逃げなかったからこそ、怪物の存在がくっきりと刻まれた。
そんな秀逸なラストでした。

思っていたよりも長くなってこの週末に書ききれなかったので
ここで一旦切ります。
感想はもう少し続きます。

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