コントレール

今週は最終回ラッシュでした。

見ているドラマがほぼ全部、

この1週間で最終回を迎えるという前代未聞のこのクール。

まず一番始めに最終回を迎えたこのドラマから。

 

 

途中までは本当に面白かったんです。

具体的には、主役二人が結ばれるまで。

恋に落ちて、ときめいて、結ばれて・・・という主人公の気持ちの動きに

見事にシンクロしながら見ていました。

でも、瞭司が文の旦那を殺した人物と文が知ってからが一気にトーンダウン。

事の顛末を瞭司が単調な説明セリフでだらだらと話すところは特に残念だった。

そこからの二人の選択も、そうするしかないよなあ・・・

という常識というか頭で考えた選択の繰り返し。

ドラマなんだからもうちょっと思いがけない展開っていうのが欲しいんです。

思えば「セカンドバージン」も面白く見ていたんだけど、

主役二人が結ばれてからはトーンダウンしたなあってかんじてたなあ。

でも「セカンドバージン」の時は、二人の恋が上手く行った途端に

行さんの転落が始まって、その転落していく様がこれまたなかなか素敵で

まだ見ていられたんだよなあ・・・。

今回は瞭司さんに殺人者という重荷を背負わし、声を失わせた以上の何かを

付加することができなかったっていうことなのかな。

「好きになってはいけない人を好きになってしまった」

という設定はよかったんだけど、そこから上手く展開させられなかった感じが

してしまうドラマでした。

瞭司さんはすごく素敵だったんだけど。

最終回で、瞭司さんが死にそうになったことで再び思いが盛り上がり・・・

というところで、久々にときめきそうになったんだけど、

1回だけ最後の思い出に結ばれて、

収まりのいい家庭に戻っていくという文の選択が

そりゃそうだよなあと思いながらも

その身勝手さがどうしても許せないと思う心もあってすっきりしなかったし。

野際さん演じるおばあさんがエゴが見え隠れする感じは面白かったかな。

いらっと来るんだけど、

こういうキャラはいらっとさせられたら成功ですもんね。

友人のさゆみも裏で何考えているか分かんない感じがちょっと面白かったです。

それから原田大蔵さん演じる刑事さんが人間くさくて好きでした。

特に最終回、旦那として揺れる思いを絶妙に演じられていました。

役者としての原田泰造さん、すごく好きなんですよねえ。

相手役が新さんじゃなかったら、

絶対この刑事さんに肩入れしながら見ていたと思います。

ただ、如何せん、井浦新さんが素敵で・・・。

井浦新さん素敵・・・で始まって、

井浦新さんいいなあ・・・で終わったドラマでした。

 

 

と、書いていたら、たまたまTVで「悼む人」をやっていて、

井浦さんと石田ゆり子さんが出ていました。

ドラマの前にも共演されてたんですねえ。

やっぱり結ばれる者同士という間柄なんだけど、

力関係が真逆なのが面白かったです。

こっちの井浦さんも素敵・・・。

石田さんは「悼む人」の役柄の方が面白いなあと思いました。




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64(後編)

「64」の後編を見てきました。

気のせいか、前編の時よりも観客の勢いが違う感じがしました。

今回は初日の朝イチで行ったのですが、

まだ下のスーパ-に繋がるエスカレーターが閉鎖されて、

朝イチの上映待ちの人がパラパラ・・・くらいの映画館

でも、集まっている年齢層が異様に高い・・・。

トイレに入って出てくると、ますますご年配の方々が増えている・・・。

そして、「『64』後編開場します」という放送が流れると

入り口にご年配の方々の長蛇の列。

スクリーンも前回は2番目に大きなスクリーンだったのが

今回は最大のスクリーンになってる。

もちろん朝イチだから満員ということはないにしろ、

寂しくはない程度にちゃんといっぱいになってる。

通常、自分の好みでチョイスする映画や、

綾野君の出演作を見に行って

これだけ年齢層が高い観客の中で映画を見ることってあんまりないので

とっても新鮮な感じでした。

あ・・・そういえば、「夏の終わり」は年齢層が比較的高かったけ。

でも、幅ももう少し広くて、30代から上って感じだった。

そんでもって、「夏の終わり」では原作者のファンなのか

通常は映画なんて観ないわ・・・っていう層の女性のマナーがすごく悪かったんだけど

(携帯を切っていなかったり、上映中に隣と人と話したり)

今回は、常日頃から夫婦で映画を見てるような感じの人たちが多くって

マナーもとってもよくて気分よく見られました。

なんといっても、定年をとうに過ぎた老夫婦という方達が多くて、

始めるまでに前編はこうだったわねえ・・・と話しておられたり、

見終わった後夫婦で感想を話している姿がとても素敵で、

こういう老後っていいなあ・・・って思いました。

うちは夫婦間での映画の趣味があまりにもかけ離れているので難しいかもしれないけど。

こういう層が見に来られる映画って、山田洋次監督の独壇場だから

「64」みたいなタイプの映画が成功するっていうのは意味があるなあと思います。

 

前編はいろんな年代の役者さんがそれぞれ見せ場をもっている感じでしたが、

後編は佐藤さん、三浦さん、緒形さん、そして永瀬さんの演技が素晴らしかった。

それぞれが、それぞれの人物の生きてきた時間をきちんと感じさせる佇まいを持っていて、

役者として長い時間を過ごしてきた確かな重みが感じられました。

特に佐藤さんと緒形さんが真正面から対峙するシーンがすごかった。

これは原作にはないシーンなんですよね。

お二人が偉大な父親を持って、ここまで役者を続けてこられてことがふと頭を過ぎりました。

知っている世代の方はそのことを思い出して感慨深いというコメントをあげられていましたが

私は緒形拳さんと三國さんが共演されていた時代を知らないので、

偉大な役者を父に持って、いろんな思いを抱きながら役者を続けてきたであろう二人が、

こうしてしっかりした存在感を持ってスクリーンの中で真正面から対峙している様子が

ただただ感慨深かったです。

この映画がそうした積み重ねられた時間の重み、人の生き様を描いた作品なので、

なおさらそんなことを感じたのかもしれません。

 

 

さてさて内容の感想なのですが、

私にとっては原作から変更された点が一番印象深かったので

主にそのことだけで感想を書いてしまうと思います。

映画を未見の方、バリバリネタバレすると思うので読まないで下さいね。

また、映画の感想を求めてたまたまここに辿り着かれた方、

原作読んでないから比較なんて興味ないよって方も決してオススメできませんので

あしからず・・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

映画では、原作とは違うラストにする・・・とは聞いていたので、

多少は覚悟していたものの、ああいう形で変わるとは思いもしていませんでした。

小説と映画は違う表現だから、原作のようなあいまいな形では終われなかった・・・

ということだったので、三上の娘が見つけ出されるのかなあ・・・

くらいのことしか思っていませんでした。

もしくは、見崎の人物像の印象が緒形直人さんと全然違っていたので

もしや・・・犯人が違うとか?!

それは嫌だなあ・・・くらいにしか思っていませんでした。

ほら、緒形さんがそんなひどい奴には見えないじゃないですか。

変えるとしたらそんなとこかなあ・・・って。

まさか、ああいう形になるとは思っていませんでした。

それも結構長く変更部分ありましたよね。

ただ、64という一つの事件のことだけを考えるのならば、

確かに原作の終わり方は中途半端だし、映画的にはアレで終われない・・・のかもしれない。

目崎はあくまでも参考人として呼ばれているだけでまだ自白にまでは至っていない。

でも、この「64」という作品は事件主題の話じゃないと思っていたので、

三上義信という人間が組織の中でいかに生きるかを描いた作品だと思っていたので、

私には原作以上に中途半端な終わり方になっちゃったなあという気がしてしまいました。

私は、「64」という作品は三上が警察という巨大組織の中で

自分の新しい居場所を見つける物語なんだと思っていたので、

映画の終わり方では三上が警察の中で居場所を失ってしまったように思えたのです。

 

 

映画で原作から変えたのは、まず、三上を捜査指揮車から降ろしたこと。

それから、原作では雨宮が使っていた電話ボックスから出たあと松岡と電話で話すのですが、

映画では電話ボックスから思わず目崎に電話してしまう。

ここから映画では大きく物語が転がりだして

原作と全く違う展開を見せる。

原作ではここで松岡と電話をすることで、松岡の見解が示され物語は収束に向かう。

三上はあくまでも広報官として64の事件の捜査に立ち会い、

広報官としてこれから想定されるマスコミと警察との大きな衝突に対峙する覚悟を決める。

けれども、映画では目崎に電話したことで、

目崎の今度は次女が姿を消していることに気付いてしまう。

そして、なんとなく訪れた雨宮の自宅で目崎の次女を偶然発見してしまう。

目崎の次女は狂言誘拐が起こる前、雨宮に車で送ってもらったことがあった。

(この辺りの経緯は見落としたのかな。なんで次女が車に乗っていたのかわからない)

車の中で次女は「お父さんに渡して欲しい」と持ち飾りを手渡される。

終始涙に暮れる雨宮を不振に思いながらも次女はその紙袋を受け取る。

けれども何かを感じたのかその紙袋を父親には手渡さない。

中には雨宮の娘(目崎に殺された)の写真が入っていて、

ずっとその写真を雨宮の大切なモノではないかと気にしていた次女は

雨宮にその写真と持ち飾りを返しに雨宮の家にやってくる。

この辺の展開が、私、本当にぼうっとしていたのか、

それとも前編で描かれていたのか、よく覚えてないんですよね。

なんで次女は雨宮の自宅を知っていたんだろう。

それに、なんで次女は父親に紙袋を渡さなかったんだろう。

そして何より、なんで雨宮は目崎の次女を車に乗せていたんだろう・・・。

おそらくは雨宮が目崎にこの誘拐が64の報復なのだと

圧力をかけるためだったんだろうけど。

もしくは、長女の家出を利用しての狂言誘拐が上手く行かなかった時の

保険だったのか・・・。

この次女が雨宮宅を訪れるタイミングで三上が居合わすというのは

ちょっとできすぎている展開な気がしないでもない。

ここから一気に三上はこの事件に主体的に関わり始める。

次女を車に乗せて、目崎を呼び出し、

64の犯人としての秘密の暴露を誘引する。

あくまでも裏方で事件の捜査を支えるという広報官としてもはみ出した行為だし、

警官の捜査手法としても、これはアウトなんじゃないかなあ・・・。

ましてや最後には感情を抑えきれずに目崎に暴力を振るってるし。

こういう方法で誘い出して、ちゃんと証拠となるのかなあ。

最終的に映画の主人公として64解決の中心に躍り出るんだけど、

でもそれは今までずっと積み重ねてきた組織人としての生き様を

根底から覆してしまう行為でしかなく、

じゃあこの物語っていったい何だったのかなあと考えてしまった。

 

 

刑事として自分の仕事に誇りと矜持を持って生きて来たのに、

娘は刑事である自分を忌み嫌い家を出てしまった。

その上刑事という役職を取り上げられ

刑事時代に忌み嫌っていた広報の仕事に回された。

広報の職場では、記者クラブとは匿名問題で信頼関係が壊れてしまっているし、

キャリア組の上司は無理難題を押しつけてくる。

部下も決して三上を認めようとしない。

そんな中、警視庁長官の視察を巡って64の事件に関わっていくうちに

刑事部の暗部がだんだん見えてくる。

そして、刑事部と警務部の権力争いの構図もまた明らかになってくる。

64の関係者を訪ね歩き、幸田メモの謎を追いながら、

三上は広報官として腹を決め記者クラブと和解し、

今後、実名報道を貫くことを約束する。

その姿を見て、今まで心を許してこなかった広報室の部下も

本当の意味で三上の部下になっていく。

ここまでが前半の内容。

後半はこの流れを受けて、

三上はあいまいな情報しか出さない刑事部に刑事時代のスキル全開で切り込んで

誘拐事件の情報を引き出していく。

三上がそこまでするのは、

前半で自分が明らかにしてきた刑事部と刑務部との確執があって、

刑事部が刑務部には情報を出さないスタンスだから誘拐事件の情報も出さないのだと

思い込んでいるから。

「もしかしたら、この誘拐事件そのものが狂言なのかもしれない」と

脚本でわざわざ地元記者の秋山に言わせていますもんね。

三上もまたその可能性を疑っている。

三上と一緒に前半で警察の内情を見てみた観客も、ここでミスリードされる。

くだらない権力闘争のせいで、

必死に築いた地元記者クラブとの信頼関係が再び揺らぎ、

マスコミと上層部の板挟みで部下たちがぼろぼろになっている。

三上は広報官としてそうした事態を打開するために、

過去の上司に突撃し、被害者家族の名前を聞き出し、

ついには指揮車に同乗し情報を流すことをも認めさせてしまう。

ここで三上は確かに捜査の最前線に立ち会うことになるんだけど、

それはあくまでも広報官として。

もしも三上が刑事としてこの事件に関わろうとしたら

それは組織の理論で松岡に一蹴されていたのだろうと思う。

松岡は三上の態度に、広報官として職務を全うしようとする覚悟を見取ったからこそ、

20分のタイムラグをつけて現場の情報を開示する。

この広報官としてというのが大切だったんだと思うんですよね。

三上は64の事件の捜査に関してあくまでも第三者の位置にいるんです。

前半であれほど64の様々な関係者に接触することで、

後半で解決に向かう大切な触媒にはなっているのですが、

あくまでも三上は64の事件の部外者なんです。

64を解決に向かわせたのは、被害者である雨宮さんの執念とも言える電話であり、

64の事件をずっと忘れなかった松岡の事件に対する驚異的な嗅覚。

原作では三上は指揮車を降りません。

指揮車のモニター越しに見崎を見ている。

そして、許された情報だけをきっちりと諏訪に伝える。

けれども映画では三上が静止を押し切って指揮車を降りてしまった。

現場に立ち入ってしまった。

ここが映画と原作の大きな分かれ目だったのだと思います。

映画では目崎が64の犯人だとわかるような情報を流してしまうため

マスコミは目崎の家を取り囲みます。

原作では描かれなかった、参考人として警察に保護された以降の目崎。

原作でもそれは指摘されていましたが、

目崎を64の犯人として追い詰めるには決め手に欠けている。

ただ、目崎の身柄を確保したところで終わっているので、

松岡なら、きっと目崎をこれだけの材料で自白に追い込んでくれる・・・

という希望をしっかりと残している。

(しかも松岡は三上に例の刑事部の秘密を目崎の犯人確定に使う覚悟まで示している)

そして、最後にきっちりと描いたのは、三上の広報官としての生き方。

目崎を自白に追い込むのは自分の仕事ではないとはっきりわかっている。

自分の仕事は、これから目崎の自供と共に明らかになるであろう過去の警察の失態、

そしてそれを刑事部が隠し続けてきたことをマスコミから糾弾されたとき、

再びマスコミとの関係は壊れてしまう。

それの関係性の再構築が自分の仕事なのだとはっきり自覚している。

警察という大きな組織の中で、自他ともに認める能力を有しながら

望まない部署に飛ばされてしまった三上。

組織を恨み、自らの権力闘争しか関心のないトップを恨み、

けれどもその組織の中でしか生きられない窮屈さを嘆き、

それでも、望まない部署で自分の出来ることを模索し全力でぶつかると

そこに自分の居場所を見つけることができた。

原作は、そういう話なんだと思うんですよね。

だから、目崎が逮捕されるかどうかもあいまいだし、

娘さんもまだ帰って来ないという原作の結末は、

一見中途半端な所で終わっている感じがするけれど、

実は三上の物語としてはきれいに始末がついているんです。

三上自身が警察という大きな組織の中でしっかりと新しい居場所を築き

ここで生きていくという覚悟のもと物語がおわる。

64の事件の解決も娘さんの失踪も、ぼんやりとした終わらせ方ではあるけれど

根幹の三上の物語がしっかりと完結するから、明るい希望を持って読み終えられたんです。

 

 

でも、映画はこの部分を根底から変えてしまった。

原作であえてぼやかして終わった目崎を三上に追い詰めさせた。

確かにそうすることで、三上は初めて事件に主体的に関わることができた。

目崎と三上を直接対峙させるという、映画らしいクライマックスシーンもできた。

原作ではも一つつかめなかった目崎という男が、映画ではもう少し掘り下げられた。

でもね、それで壊れてしまったところがたくさんある。

この展開では、三上はあくまでも広報官になりきれなかったっていうことです。

原作で獲得していた三上の居場所を、映画ではなくしてしまいました。

広報官としてだけではなく、警察官としても危うい。

組織の中で生きてきた男が、感情の赴くまま組織を逸脱して行動し、

組織からはじかれようとしている。

じゃあ、この人の今までの生き様は一体なんだったの?

今まで、理不尽な上司の要求にも粛々と従い、

必死で仕事に向き合ってきた今までの人生は?

もちろん、映画の主人公としてこの方が映えるというのはよく分かります。

三上の信条に素直に従えばこういう行動するかも・・・とも思います。

でも、しないのがこの作品の面白さだったんじゃないのかな。

前半で丁寧に描いてきた組織の中で生きるがゆえの軋轢、苦しさ、理不尽さ

そういうものと戦いながら真実を追い求め、

それでも組織にしがみつくのが三上だったんじゃないのかな。

64という事件を主軸に見れば、原作では事件解決の中枢に入り込めなかった三上が

映画では確かに主役として事件の中心に躍り出た。

でも、64という事件を主軸に見ると、前半の描き方はあまりにまどろっこしい。

そして、64の事件解決だけに焦点を当てるのならば、

被害者が過去の事件になぞらえて犯人をおびき出すというトリックは

それほど目新しいものじゃない。

この作品の面白さは、64という誘拐事件を物語の中心に置きながら

事件と絡めながら主人公の生き様を描いていることだったんじゃないのかな・・・

映画ではそれを損なってしまったんじゃないのかな・・・

というのが、映画を見た私の感想です。

もちろん、映像化するにあたって原作の解釈を変えることは多々あります。

「そこのみにて光輝く」もドラマ「ロンググッドバイ」もそういう作品で

私は映像的な新しい作品解釈を支持してきました。

でも、「64」に関しては、改変の意味が、「映画的な必要性」・・・

という点にしか意味が見いだせなかったのが不満が残った理由です。

あくまでも主人公が事件の中心にいなければ映画が持たない、

映像的に主人公と犯人が直接対峙しなければ面白くない

そんな凝り固まった映画理論で改変が行われたのだとしたら

ちょっと残念だなあと思います。

TV放映されて、もしくはDVDで、改めて家で視聴したとき

ああ、前半もこう解釈すればちゃんと筋が通ってるやん!

っていう解釈を発見できたら、また自分の評価が変わるかもしれない。

 

綾野君の感想に関しては・・・ははは・・・感想の持ちようがない。

後半では宣伝にほとんど参加しなかったのもうなずけます。

登場回数は結構あるんですけどね。

映画の方向性が組織人としての三上を描くのではなく

64の事件解決にあるので、映った場面にそんなに意味がなくなっているんですよね。

ただ単に姿を見たいという意味ではまあまあいいかな。

スーツしっかり着て、すっきりしたいでたちだし。

撮影は大変だったろうなあと思います。

やたらともみくちゃになるようなシーンばっかりだったし。

綾野君のシーンはどちらかというと記者さんたちとのシーンが多かったので

並み居るベテラン俳優さん達との撮影はそんなにはなかったのかなあ・・・。

ただ、これだけの規模で、これだけのメンツを集めた映画に参加出来たこと

そして、舞台挨拶等で、大きな舞台で主役の隣に立てたことは

とても大きな経験になったのではないかと思います。

新聞記者さん達を演じた役者さん達も

私は存じないのですが知る人ぞ知る面白い俳優さん達がいっぱいだったみたいで

そういう人たちとも交流したのかなあ・・・。

この作品は、そういうバックグラウンド的な意味で価値があったのかなあ・・・

と思うことにします。

あ、あと、見ている側から言えば、

次の「日本で一番悪い奴ら」のいい前振りだなあと・・・(^^;)

刑事役が2作品続いて居るのに、この振り幅って・・・っていうところに

面白さを見いだしたいと思います。


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