そこのみにて光輝く(ネタバレあり)その3

続きです。

これ書きにくい部分なので、上手く書けるかどうか分からないんですが、
この映画で一番感じたのは、人を好きになったときの肌感覚なんです。
「カーネーション」でも恋する疑似体験をした感覚を味わいましたが、
「カーネーション」は心情的な部分と言いますか、
人を好きになったときの胸がキュンとする感じ。
どこかプラトニックな部分での恋だった気がします。
けれども、「そこのみにて・・・」で感じたのは
もっと皮膚感覚に近い感じ。
好きな人に初めて触れた時の感覚、
好きな人に初めて触れられた時の喜び、
そういう「カーネーション」の時よりもずっと肉体感覚を伴った感覚で
人を好きになるという気持ちを味わった気がします。
それはもちろんガッツリとそういうラブシーンが描かれていたせいというのが大きいんですけど。
女性の監督・・・というのもあるかもしれないなあ。
この映画は達夫と千夏のベッドシーン以外にも、
千夏が商売で男性と寝ているシーンや、
中島とのシーンもたくさん描かれるんだけれど、
そういったシーンと達夫のシーンは明確に違った感じで撮ってある。
よくあるTVドラマみたいにきれいにごまかしてある感じではなくて、
それなりにがっつり脱いでいるし、結構ちゃんと撮っているのに、
達夫と千夏のシーンは行為の向こうに愛するという気持ちが伝わって来るんですよね。
この部分はもしかしたら男性と女性で見え方が違ってくるのかなあ・・・とも思います。
男性の方にはぬるい描写に見えてしまうのかも・・・。
こういうR指定がかかっているような映画でがっつりラブシーンが描かれていると、
登場人物たちの人を好きになる気持ちに感情移入していても、
そういうシーンになると気持ちがちょっと途切れて、
結構醒めた目で「うわ~(・・;)」って思いで見ちゃうことが多いんですけれども、
「そこのみ・・・」では好きという気持ちがそのまま高まっていくようなラブシーンになっていて、
そういうところがとても好きでした。
それはシナリオの構成云々じゃなくて、映像の力なんだろうと思います。
二人が愛し合っていると言うことが映像として強く伝わってくるから、
かたくなな千夏が結婚を受け入れると言う流れもすんなりと受け入れられるし、
達夫がいろいろと面倒なことを抱えすぎている千夏を見捨てないのも理解出来る。
作品の根幹部分を支えている心の部分をきちんと映像として表現出来ていたからこそ、
この映画が絵空事にならなかったのだと思います。



シナリオとして工夫されていたなあ・・・って思うのは、
千夏と達夫のシーンの後が、必ず千夏と中島のそういうシーンなんですよね( ̄ー ̄;
特に最初は達夫とのシーンとダイレクトにつながっているから、
千夏がベッドで絡んでいる相手が達夫かと一瞬思ってしまう。
(この段階で達夫とはキスシーンまでしか描かれず、キスからそういう雰囲気に・・・
って所で切り替わるため)
夜から昼へ変わり、部屋も明らかに変わっているんだけれど、
え? 達夫?Σ(・ω・;|||
って見る度驚いてしまう・・・σ(^_^;)
一気に生々しくなった行為に、盛り上がった気持ちが一気に引いちゃう。
でも、達夫じゃないってわかって、ちょっとほっとして・・・。
と、同時に、彼女がしている仕事がどういうものか、
肌感覚として感じてしまう。
やっている行為は同じなはずなのに、
そこに心があるかどうかで、感じ方は全く違う。
自分が愛されているのか、
単なる性欲のはけ口にされているのか。
でも彼女はそんな違いに今まで気付かなかったんだろうな・・・。
それまで大事に扱われたことなんてなかったろうから・・・。
でも、好きな人が出来て、
その相手から大切にされる・・・という経験をしてしまうと、
愛があるかないかの差は痛切に感じられて・・・。
中島にそっけない態度を取り、早々に切り上げてしまう千夏の気持ちが痛いほどわかる。
そのギャップをもっと切実に感じたのが後半の場面。
結婚の意思を伝えられて、
幸せな気持ちで達夫と拓児と3人で食事して、
そして達夫と幸せな夜を過ごした後のシーン。
中島につきまとわれて仕方なく乗った車の中、
いつものように仕事(お金のため)と割り切ろうとするけれど、
どうしても我慢が出来なくなって「いやだ」と叫んでしまう。
達夫との夜とこのシーンの落差がものすごくて・・・。
中島とのシーンの前にはいつも達夫との幸せな時間がある・・・っていうシーンの組み立て方
すごく効果的だけど、鬼だな・・・( ̄ー ̄; と思いました。
中島が「金さえ払えばいいんだろ」と千夏の口の中にお札を突っ込んだときは
一瞬殺意がわいたもの・・・((o(-゛-;)
それからしばらくテレビで高橋さんの姿を見るとぞわっとしてました。
「ルーズベルト・ゲーム」ではちゃんといい人の役だったのに、
心のどこかで、「こいつほんまは悪い奴や゛(`ヘ´#)」と思っちゃうくらいσ(^_^;)
高橋さん自身は何にも悪くないんですけどね。
でも、考えてみれば、中島は中島なりに千夏に執着していたんですよね。
二人での会話を聞いていると、
立場的には圧倒的に中島が上のはずなのに、
いつもどこか千夏の方がイニシアティブを握っている。
千夏は中島の愛人・・・という設定のようですが、
この関係、厳密に言えば愛人・・・というほどの関係ではないですよね。
単に店を通さない固定客・・・といった感じ。
中島も拓児に言ったように、
千夏が中島の紹介で役所にバイトみたいな形で入り込んだりして真っ当な職を得て
足りない分の生活費は中島が面倒見ていて、
中島の他に客は取らない・・・といった形なら、
もっと明確な愛人関係と言えるんだろうけど・・・。
たぶん、中島の言った「めんどくさい女」というのはそういう部分で、
本当は中島は何らかの形で千夏を完全に自分の手の中に置いてきたいんだろうけど、
きっと千夏がそういう関係を拒んでる。
それは千夏の矜持なんじゃないかと思うんですよね。
家族は自分の稼ぎで養っていると思いたいんじゃないかな。
完全に中島の愛人になってしまうと、
千夏の家族を支えているのは中島・・・ということになってしまうから・・・。
中島は千夏のそういう部分がめんどくさいって思っているんだけど、
だからこそ千夏に執着するんじゃないか・・・とも思えるんですよね。
中島の立場と財力があれば、いくらでも自分に都合のいい女を囲えるはずだもの。
自分の手の中で黙って言うことを聞く女。
でもきっとそういう女じゃ中島はだめなんだね。
だからホントは他の客なんてとってほしくなくて、独り占めしたいって不満を抱きながらも、
千夏にくっついている。
千夏は好きで娼婦をやってるわけじゃない。
好きで中島の女やっているわけでもない。
ただ、生きていくためにそれしか手段がなかったから
自分の身体を使ってお金を稼いでいるだけ。
それが世間からどう見られるかということは分かっているだろうけど、
それほど罪悪感や絶望感は感じていなかったんじゃないかな。
それよりも家族が生きていくことが大事。
逆に、その職業に誇りや自負心を持っているわけでもないと思います。
ただただそれしかなかったからやっているだけ。
でも、達夫に出会って、本当に愛されると言うことがどういうことなのか知ってしまって、
今まで当たり前のように仕事としてこなしていた行為に耐えられなくなっていく。
そういう千夏の思いが理屈じゃなく皮膚感覚として伝わっているような映像になっていて、
この映画は映像としての力がものすごく強い作品だと思いました。
ストーリーや構成<映像の作品。
この映像の力が映画の世界観をしっかり支えたからこそ、
達夫と千夏の恋愛に説得力が出たのだと思います。
これ、女性の監督さんでなかったらもっと違ったテイストの作品になっていたと思います。
監督が呉監督でよかった。




さて、この作品はそもそも成り立ちからして変わっていて、
函館の市民が中心になって作られた映画です。
その上、宣伝用の資金をクラウドファウンディングで集めました。
これ、面白いなあ・・・って思ったんですよね。
私は資金に全く余裕がなかったので参加出来ませんでしたが・・・(;^_^A
ファンは作品が世に出たら、映画を見に行くとか、DVDになった作品を買うとか、舞台を見に行く・・・と言う方法で参加出来ますが、
世に出てくれるまでは指をくわえて待ってるより他なくて・・・。
特に映画は企画段階でぽしゃったり、撮影したものの上映予定がたたなかったり、
上映できてもほとんど効果的な宣伝ができずひっそりと消えていったり・・・
といった作品が多い。(ということを綾野君のファンになってから知りました)
だから、作品を世に出す段階でファンがなんらかのお手伝いが出来たら、
お蔵入りになっちゃう映画も減るかも・・・と思ったんですよね。
ただ、出資のリターンを工夫しないと危ないなあ・・・とも思いました。
例えば出演者と会える、握手できる、みたいな方向にリターンがいっちゃえば、
本末転倒になるかなあ・・・って思ったんですよね。
そうなると、映画制作の趣旨に賛同して出資する・・・という本来の目的から外れて、
○○さんと握手する権利を買うために出資する・・・という方向に流れかねない。
そういう形の資金集めって言うのはちょっと嫌だなあ・・・って思う。
出資者には優先的に試写会に招待するとかなら問題ない気がするけど・・・。
無駄にファン心理を煽らない形でリターンが設定できて、
資金運用の結果を出資者にきちんと報告できるならば、
この方法はとても有効なんじゃないかと思います。
実際に「そこのみにて・・・」もクラウドファウンディングという手法をとらなければ、
せっかく海外のコンペに出品できる機会があっても字幕もつけられなかったし、
もっと少ない映画館でしか公開されなかったかもしれない。
結果的にモントリオール世界映画祭に出品できるし、
小規模作品にしてはかなり頑張って宣伝したと思います。
試写ももちろん大規模作品ほどでないにしろ、それなりにあったようですし。
その結果、より多くの人に認知してもらって、
未だに公開されている所もあるし、
多くの人がこの映画の存在を知ってくれた・・・っていうのは嬉しいです。
綾野君の主演映画の中では一番のヒット作になったのではないかしら・・・。
もちろんそこに中身が伴ってなければお話にならないわけですが、
この作品は今年の賞レースに参加できそうな作品。
賞狙いで作られたわけではないと思いますが、
それでも力作でも賞とは縁のないタイプの作品もたくさんあるわけで・・・
そんな中で賞を狙えそうな作品で主演できたことって大きいなあと思います。
綾野君自身も渾身の作品となったみたいだしね。
それにしても、綾野君が映画で主演する時って、
「Life」の勇にしても「渋谷」の水沢にしても「そこのみ・・・」の達夫にしても、
悩んでいる女の子(女性)を受け止める優しい役であることが多い気がする。
それも王子サマみたいに受け止めるのではなくて、
自身も同じように傷つきながら寄り添うことで女の子を救う。
こういう押しつけない優しさを自然に表現出来るのは綾野君ならではだという気がします。
この映画が日本を飛び出して、モントリオール世界映画祭で上映されることが嬉しい。
どうかたくさんの人にこの映画が届きますように・・・。

ふう・・・長かった・・・(;^_^A
さすがにもう続きません。
もっといろいろコマコマと思うことはあるのですが、
とにかくここで一応おしまい。



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そこのみにて光輝く(ネタバレあり)その2

菅田くん演じる拓児がとにかく魅力的でした。
この映画の感想ツイートの多くが彼の演技を褒めていましたっけ。
拓児のどこか憎めない感じ、かわいらしさ・・・っていうのは
台詞やト書きじゃない部分で、画面から伝わってくるんですよね。
冷静に考えたら、前科者だし、お金が入ってもお寿司とかでぱっと使っちゃうし、
パチンコに有り金全部つぎこんじゃうくらい計画性がないし、
強いものには簡単になついてへいこらしちゃうし、
自分の安泰のために姉ちゃんを平気で差し出しちゃうようなやつなんだけど、
憎めない。
この憎めなさ、かわいらしさ、純粋さ・・・っていうのは、
原作よりもずっとずっと映画の方が出ていました。
原作でも本質的には一緒なんだけど、
根本的に見かけがもっとおっさんなんですよね(;^_^A
原作は達夫視点で物語が進んで行くので、
基本的に達夫が知りうる範囲内でしか拓児も千夏も描かれない。
けれども映画では達夫の視点という縛りをはずしたために、
達夫が知らないはずの拓児や千夏の日常シーンが増えました。
その分、主役の比重は下がって、
達也の物語というよりは3人の群像劇としての意味合いが強くなったかなあ・・・。
拓児の増えたシーンはやっぱり中島とのシーン。
というか、中島は映画になって一番膨らませらた人物。
原作ではほんの1シーンくらいですよね、実際に登場するのは。
でもこの人物が膨らませられたおかげで物語にぐっと深みが増した気がする。
高橋和也さんってこんないい役者さんになられてたんですねえ・・・。
もとジャニーズとは思えないほど、生活感のある年相応の大人の役がとても似合う。
地元の顔役で身体には大きな入れ墨があって・・・
という中島をすごく自然に演じられていてびっくりしました。
中島の
「(家族を)大事にしてっからおかしくなるんだべや」
っていう台詞はとても印象的な台詞でした。
家族を大切にするために、
家族の前ではいい夫、いい父親でいるために、
汚い感情や醜い欲望のはけ口として千夏が必要っていうわけなのね・・・。
拓児はちゃんとそういう中島の欺瞞に気付いているんだと思う。
町内会長さんから金額を書かない領収書を受け取る様も、
家族の前でいいお父さんを演じている様も見ていますもんね。
でも、その中島によって自分の自由も家族の生活も支えられているって分かっているから、
汚い部分は見えないことにして、中島の腰巾着のようにふるまう。
それは計算と言うほどのものじゃなくて、弱い者の本能みたいなものだと思う。
中盤の競輪場のシーンでも、拓児の腰巾着のような態度は変わらない。
でも、このシーンは達夫に山に連れて行ってくれとせがんで、激しく拒絶された後の出来事。
そのせいか、最初の頃の中島の事務所でのシーンとは拓児の様子がちょっと変わっている。
中島が千夏の話を持ち出す時に、
拓児の仮出所の身元引受人は自分だと暗に圧力をかけてるときに、
中島をふっと突き放して見るような表情になる。
きっと彼の中で達夫と中島二人が天秤にかかっているんだろうな。
この段階で達夫は拓児を山に連れて行くことを頑なに拒否していて
姉との今後も不透明・・・となれば、
やっぱりこのまま中島に頼った生活を続ける他はなくて、
とりあえず分かりやすく中島にくっついていっているんだけど。
けれども拓児の中に、中島以外の選択肢(の芽)が生まれているっていうことが大事。
変わらない、こうするより他はない・・・って思っていた現実が、
そうではない未来もあるのかもしれない・・・と考えはじめた中盤。
そういう拓児の心境の変化もきちんと滲ませていた菅田くんの演技ってすごい・・・。
だから拓児が中島を刺してしまうという事件は
表面的に見れば、せっかく開けはじめた未来をぶち壊してしまった愚行でしかないのだけれど、
拓児にとっては自分たちを縛っていた世間の象徴である中島に
初めて自分の正直な気持ち(怒り)をぶつけることができたということであり、
自分たちを縛っていた鎖を自らの力で断ち切ろうとしたっていうことに他ならなくて・・・。
だから、物語の展開としては救いようもなく暗くて重い展開なのに、
どこかすっきりしたような明るさを感じさせるんだと思う。
拓児が事件後、他のどこでもなくて、達夫の部屋の前に行ったのも、
拓児が中島ではなくて達夫を選んだということ。
家族の元じゃなく、どこかへ出奔・・・でもなく、
達夫の元に帰ってきた。
原作では浜辺に隠れてるんですよね。
それを達夫が見つける。
映画では拓児が達夫の家の前で見つかった・・・っていうことが、
原作以上に密に描かれた達夫と拓児の関係性をはっきりと示していると思いました。
そんな拓児をきちんとしかって(殴って)しっかりと受け止めた達夫。
原作よりももっとちゃんと交番の前まで送っていってやるんですよね。
自転車の荷台に載せて。
最初は誘われても拓児の自転車の荷台に乗らなかった達夫。
それが数回続いて、
中島に会いに行くときに初めて拓児の自転車の後に乗って、
酔った拓児を自宅に送り届けた時に前後が交代したっけ・・・。
そして、このシーン。
ガランとした夜の道を二人乗りした自転車がするりと走って、
道の向こうに交番っていう横断歩道の手前で止まる。
青になる歩行者信号。
でも、拓児は立ったまま。
達夫も何も言わない。
青が点滅し始めて・・・ああ、赤に変わっちゃう・・・ってところで
ようやく渡り出す拓児。
その足取りは思った以上に軽やかで・・・。
ここ、大好きなシーンでした。
つらい場面なんだけど、
せっかく開きかけていた新しい生活への扉を
たった1回の激情でだめにしちゃった拓児なんだけど、
そこにあるのは人生への絶望なんかじゃなくて、
何かしら明るいものに感じたのは、
彼が自分の手で自分たちを縛っている鎖を断ち切れたからだと思います。
そのやり方は明らかに間違っていたんだけれど、
彼の不器用さを理解し受け止めてくれる人もいる。
それを希望と呼ぶのはふさわしくないのかもしれないけれど・・・。


この客観的に見れば絶望しかないと思われる場面なのに
どこか明るい光を感じる・・・のは千夏も同じ。
弟が再び人を刺してしまうという事件を起こして、
母親はぐちを言うばっかりで何もできず、
父親は寝たきりで、こんな時までその性欲の始末をしなければなない。
そんな中で、おもわず父親の首をしめてしまう・・・と書いていくと、
本当に重い展開。
どこにも逃げ道がなさそうな暗闇の中、
千夏は達夫に止められてようやく我に返り父親の首から手をはなす。
皮肉なことに、娘に殺されそうになったその時、
父親はようやく千夏を娘として認識する。
母親の代わりじゃなくて、性欲のはけ口でもなく
千夏という名の自分の娘として・・・。
ぼけてしまった父親を看病しながら、
千夏は自分のことを思い出して欲しいと願っていたに違いありません。
もう一度娘として自分を見て欲しい・・・と。
でも、それが叶ったのが、自分が父親の首を絞めた時だなんて・・・。
父親を殺しそうになったという現実から逃げ出すように、
千夏は家を飛び出します。
それを追いかける達夫。
拓児の自転車と同様に、ここにも、立ち位置の逆転がある。
これまでは先に家を出るのは必ず達夫だったんですよね。
追いかけるように家から出てくるのは千夏。
それが、最後の最後で達夫が千夏を追うという構図になる。
達夫は何も言わない。
泣きそうな顔で微笑むだけ。
でも、千夏にとってはそれで十分だったんだろうな。
逃げずに、自分を追いかけてきてくれたというだけで・・・。
自分のことも、家族のことも、自分の周りはめんどくさいことばっかりで、
自分でも逃げ出したくなるのに、
達夫は逃げずに追いかけてきてくれた・・・。
それに、千夏の行動も拓児の行動と似た要素を含んでいますよね。
彼女もまた、自分の手で自分をがんじがらめに縛っている鎖を切ろうとした。
千夏と家族の関係って一種の相互依存なんじゃないかと思うんです。
もちろん家族は千夏に経済的に完全に依存している。
でも、千夏の方も家族に精神的に依存しているんではないかな。
家族を捨てようと思えばできないことはなかった。
でも、捨てられない。
それは、所謂普通の社会の中で生きる場所を見つけられなかった千夏が、
存在を肯定される絶対的な場所が家族だったから。
自分がいなければ家族は生きて行けない・・・という思いに依存して生きてきた。
中島が行った
「(家族を)大切にしてるからおかしくなるんだ」
という言葉はきっと千夏にも当てはまっていて、
家族を思えば思うほどそこに捕らわれて泥沼にはまり込んでいく・・・。
けれども、達夫と出会って、そういう生き方ではない生き方が見えてきて、
初めて自分の手で(衝動的だったとは言え)家族の絆を断ち切ろうとした。
鎖を断ち切るために父の首を絞める・・・と書いてしまうと
悲劇的で絶望的なことにしか思えないんだけれども、
それでも、千夏が今自分がいる場所から一歩踏み出そうとしたあがきだと考えると
一言で悲劇とは言えない。
そして、達夫の背後から朝陽が差してきて、千夏を照らす。
夜の闇は夜明けの直前がもっとも暗い。
そんなことをふと思い出しました。
この映画で朝陽が描かれるのは2度。
一度目は中盤辺りで登場します。
心の奥底では山に戻りたがっていることを松本に指摘されて動揺して、
千夏を呼び出したものの、
中途半端な態度で千夏を束縛しようとしていることを指摘され、
酔って再び千夏の店に訪れたけれど
やっぱり自分の中途半端な関わり方じゃどうにもならないことに気付いて
一人山の墓地に向う・・・という流れの中で達夫が見た朝日。
墓地から見た町にゆっくりと朝日が差して、
達夫はその光景を見て、本気で千夏とその家族と向き合うことを決意します。
同僚の死から立ち直れずに、
生きながら、生と死の境界でふらふら彷徨っていた達夫。
達夫は死者の側(墓地)から生の世界(町)を見下ろして
朝陽に煌めく町を見ながら、あそこで生きていこうと、
いつまでも死を引きずるのではなくて、自分は生きていくんだと
決心したと思うんですよね。
ここを境として、達夫ははっきりと千夏と一緒になる為に動き出す。
あの時、達夫が見た朝陽に照らされる町に、今、達夫も千夏も居て、
どうにもならない現実を抱えながらも、確かに生きている。
達夫も千夏も、拓児も、千夏の母親も父親も、そして中島も、
同じ光の中で、同じ町で、確かに生きている。
今、真新しい日の始まりを告げる光が達夫と千夏二人を照らして、
暗黒の夜はもう終わったのだと告げている。
これから始まる一日が、
彼らの前に広がる未来が、
必ずしも明るく輝かしいものだとは言えない。
けれども、今、二人はここで光を浴びながら向かい合っている。
「そこのみにて光輝く」というこの作品のタイトルがその時初めて画面に現れて
そしてこの映画は終わります。
起こった出来事を並べていくと人生の過酷さばかり描いているように見えるこの映画が、
見終わった後、絶望感よりもどこか希望を感じさせて終わるのは、
この朝陽の美しさによるものが大きい。
同時に、それまでに丁寧に積み重ねられた
達夫、千夏、拓児それぞれが少しずつ前に進もうとするその姿が
見ている私達のこころに幽かな、けれどもどこか力強い光として感じられるのです。
それを一言で希望と言ってしまうと少し違う気もするのですが・・・。

というわけで、長くなったので続きます。
(まだ続けるんかい! と自分で突っ込んでみるσ(^_^;))

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posted by HaHa at 18:46Comment(0)映画

そこのみにて光輝く(ネタバレあり)その1

1回目に映画を見に行った直後に書いた感想で、
勢いでパンフレットと「月間シナリオ」を買ったら、
パンフレットにシナリオが載っていて凹んだ・・・と書きましたが、
パンフレットのシナリオは採録であることを教えてもらって一気に浮上。
ついでに勢いにのって原作も購入。
もともとは図書館で借りて読んだんですけど、
映画を見終わって、あれ? 原作ってこんな話だっけ?
と、もう一度原作をじっくり読み直したくなったので
文庫本を買ってしまいました。
今だったら表紙も映画仕様になってるしね(o^-')b
映画を観てから改めて原作を読み直してみて、
あれ? 原作ってこんな話だっけ?
と思った感想に間違いはなかったことを再確認。
原作が読めていなかったわけじゃなくて、
やっぱりぜんぜん違う話でした。
千夏の家族の設定とか、細かいエピソードなどは
比較的にきちんと原作通りなんだけど、
話の根幹が変えられている。
試写会が始まった頃出てきたキャッチフレーズや
招待されて試写を見られた方の感想を読んで??と思っていたんだけど、
そういうことだったんだな。
原作はあくまでも達夫の物語であって、
千夏(や拓児)は通過点の一つになっている気がする。
きっと書かれた時代も大きく影響していたんだろうな。
バブルの終わり頃の、みんなが上へ上へと志向している時代の中で、
その流れに反してひたすらに下に向かって生きようとし、
そういう生き方の中に自分の居場所を見つけようとする男の話なんだと思う。
千夏と結婚するのも最終的にはそういう理由な気がする。
千夏がああいう境遇に生きていなかったら結婚したかどうか・・・。
映画で切り捨てられた大きな部分に、
原作では繰り返し描かれている「差別」があって、
それは余計に下へ(世間の人たちが目指す方向とは逆の方向へ)向かおうとする
達夫の生き方を強調している。
映画では経済的に底辺に生きる家族っていう描写に留められてますが・・・。
映画で明らかな形で描かれなかった拓児が刑務所に入る理由を、
原作では侮蔑された相手に怪我を負わせたからと明確に書いています。
千夏もまた、そういう自分たちを差別し蔑む人たちに敏感に反応し、
相手を刺した拓児を評して、自分だったら殺したのに・・・と激しい憎悪を見せる。
千夏の家族は、見せかけだけ差別を解消するために行政が用意したこぎれいなマンションに移り住むことをかたくなに拒否して、あのぼろ家に住み続けている。
原作の達夫はそういう千夏や拓児の持つ反骨精神みたいなものに惹かれて、
彼らの生きる過酷な現実の中に生きる実感を求めていくんだと思う。
けれども、そこでの生活も安定したものへと変わって行くと
またどこか物足りなくなり、
より不安定なもの(山での仕事)に惹かれていく。
原作は2部に分かれていて、後半は山に行くことを決意するまでの物語。
後半で達夫は浮気もしちゃうし(それもほとんど罪悪感なく(  ̄っ ̄))
千夏と子供との生活を捨てるかのように山に惹かれていくので、
なんとなく裏切られたような気もして・・・σ(^_^;)
この後半の部分が妙に印象に残ってしまって原作の後味はあまりよくなかった・・・。
映画は後半部分の要素を取り込みながらも、
主に前半の物語を主軸にまとめてあるので、
きっちりと恋愛物語になっていましたけれども・・・。
達夫の元の職業を大手の造船所から山の仕事に変えたというのは
2部に分かれた作品を一つにまとめるという手段というよりも
もっと大きな意味を持っていたんですね。
世間体も良くて安定した職業を捨てた・・・という部分が省かれて、
山での仕事のうさんくささを排除して、
その上で達夫の前職としたことで
作品のテーマみたいなものをごっそりと変えてしまった。
ちょうど「ロンググッドバイ」も同時期に原作を読んでドラマと比較したりしていたものですから
この2作品にどこか共通する部分を感じて面白いなあと思いました。
「ロンググッドバイ」がハードボイルドな男の世界を描いているように
「そこのみにて・・・」も男性の作家が描いた男性らしい世界観を持った作品です。
どちらも映像化するにあたって、女性が大きく関わることで
作品のカラーだけでなくテーマ性みたいなものも変えて
物語の根幹を全く違うものにしてしまった感じがしました。
「ロング・・・」のほうはあまりにも有名な作品だったこともあって、
その変化は非常に厳しい評価を受けてしまいましたが。
「そこのみにて・・・」の方は結構好意的に受け入れられたようで、よかった・・・。
たぶん、熱心な佐藤氏の読み手がいて、
その人が殊更にこの作品に執着していたら
もしかしたら許し難い改変と映るかもしれないなあ・・・とは思います。
それくらい根本的な部分が違う。
でも、私は圧倒的に映画版が好きです。
原作の達夫はやっぱりどこか上から千夏たちに関わっている気がしたから。
映画では達夫が部下を死なせてしまったという負い目を背負っているのが大きいですよね。
劇中の千夏の台詞に
「だから私みたいな女でいいんだ」
というものがありますが、
そういう意味ではなくて、彼に負い目を背負わすことで
達夫が一方的に与える側(救う側)ではなくなるんです。
千夏に達夫の重荷を共に背負う余地を与えている。
千夏が背負っているものに比べて達夫のそれはずいぶんと軽い・・・
という見方もあるとは思いますが、
原作ではほとんどなかったわけですから、
達夫の人物造形を自分の生きる場所を探し求めるモラトリアム人間から
過去の出来事を引きずって立ち直れないでいる男に変えたって言うのは
すごく意味のある改変だったと思います。



さて、原作から離れて「月間シナリオ」に掲載されたシナリオと
パンフレットに採録されたシナリオを見ていると所々違っていて面白い。
シナリオとして読みごたえがあるのは圧倒的に「月間シナリオ」に掲載された方です。
シナリオにもちゃんと文体ってあるんだなあ・・・と改めて思いました。
「月間シナリオ」に掲載されているシナリオの方が味がある気がする。
一方採録の方はつるんとした感じ。
最初何も考えずに採録の方のシナリオを読んでいて、
綾野君どうしてこの冒頭5行で出演が決められるんだ?(?_?)
と思ったのですが、「月間シナリオ」の方を読んだらちょっと納得しました。
書かれていることはほぼ同じなのに、
確かに「月間シナリオ」の方が空気感が伝わってくるようなト書き表現。
シナリオを読み慣れていて、感性の鋭い綾野君なら
確かにこの冒頭から何か感じることがあったんだろうな・・・と思わせられる。
内容自体の差違は本当に些細なことが多いですね。
「シナリオ」にあって採録にない部分の多くは
尺の関係で切られたのかなあ・・・っていうところ。
あとは頭の中で組み立てられた流れと、
実際に俳優さんが身体を動かした流れとではちょっと変わっちゃうのかなあ・・・
っていう部分もあったり・・・。
本当に細かいんだけど、「シナリオ」では達夫が拓児の家に入る時に躊躇しているのが
採録だと結構すんなりと敷居をまたぐけど、畳にあがる段階で一番躊躇してたりだとか・・・。
役者さんの演技や演出などで膨らまされたんだろうなあ・・・っていうところも。
冒頭でパチンコ屋から出てきた拓児が自転車のカゴにゴミが入っているのを見つけて
文句言いながらゴミ箱にゴミを捨てるシーン・・・
これって採録にしかありませんから、
現場で膨らまされた部分なんでしょうね。
宇多丸さんもラジオの映画評論で取り上げられていたように、
拓児の人物像を端的に表現している部分。
こういうのは現場の空気感から生まれてくるんだなあ・・・。
採録で大きく変えられていたなあ・・・と印象に残っているのは
やっぱりインタビューなどで取り上げられていた、達夫が拓児を殴る部分。
殴ることで、達夫と拓児の距離が縮まったことがより伝わって来る。
達夫の拓児に対する思いも。
もう一カ所、ここも現場で作られたんだ・・・と思ったのが、
最初に千夏が働いている店に達夫が行くシーン。
はじめて見た時に、達夫が千夏を笑うのが一瞬すごくびっくりして・・・。
え? ここで笑っちゃうの? そんなに大きく?
と、ちょっと戸惑いました。
やっぱりあの場で声を上げて笑う・・・って明らかにバカにされたと取られても仕方ない反応だし
それがわからない達夫じゃないはずだし・・・なんで?
とちょっとひっかかる。
「シナリオ」のほうは目だけがほんの少し笑うんです。
それに敏感に気が付いた千夏が達夫の頬をうつ。
このシーン、達夫は千夏に笑ったんじゃないですよね。
たぶん、ちょっといいな・・・と思った女を、
こんな店で買おうとした自分に笑ったんですよね。
だったら声を出してはっきり笑ったほうがいい。
酔っていることも強調できるし。
その自分の反応が千夏にどう受け止められるかということを考えもせずに
自分に対して笑うわけですから、
この一連の流れの主体は達夫になる。
目だけで笑うとばかにされて反応した千夏の方に焦点が行く。
見ていてちょっとひっかかるというのも大切な要素である気がします。
観客はひかかった瞬間、達夫の気持ちを考えますから。
わかりやすい表現ばっかりじゃつまらないですもんね。
特に映画は。



変えられた表現・・・といえば、冒頭の達夫と拓児が出会うパチンコ屋のシーンも
ちょこっと変えられていました。
これは原作→シナリオの段階での改変ですが。
原作では達夫は拓児にライターを貸した後、
景品でライターをもらってきてそれを拓児にやって
自分のライターは取り返すんです。
映画だと、拓児に渡したライターはそのまま拓児にあげちゃって、
自分は景品で引き替えたライターを持って出ていく。
本当にちょこっとした改変なんですけどね。
でも原作の場合だと、達夫の「自分のものはそう簡単に見知らぬ人にやらない」という
どこか自己意識みたいなものを感じます。
原作だと達夫は仕事を辞めたのも、
加熱する労働運動に巻き込まれることをよしとしなかったからで、
決して仕事を辞めたことで自暴自棄になっているわけじゃない。
かえって、大きな流れに容易には染まらないというような自意識の強さを感じさせます。
そういう達夫が「自分の」ライターを取り返して新しいものを拓児にやる・・・というのは
とても納得がいきます。
拓児から見れば見ず知らずの人から新品の(使い捨てではるけれど)ものをもらった・・・
ということで、「ものをもらった」という思いが強くなるだろうし・・・。
その後お礼として自宅に誘うのも分かる気がします。
一方映画の表現は玉をライターに引き替えた後、
もう一度拓児の元に戻るというワンクッションがなくなっています。
映画の達夫は仕事で仲間を亡くし、挫折感と罪悪感で自堕落な生活をしていて
他人との関わりをほとんど持とうとしていない状態。
そういう映画の達夫の行動として、もう一度拓児の元に戻るというアクションを省いたのは
これまたすごく妥当な選択だったなあと思います。
達夫はこれ以上関わり合いたくなかったんだろうな。
けれども拓児はくっついてきた。
本来は、人との関わりを避けている達夫を拓児が自宅に誘う・・・というのは
原作よりも格段にハードルがあがっているはずなんですけど、
その部分は菅田くんの魅力で難なくクリアしていました。



長くなったので、一旦切ります。



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posted by HaHa at 22:12Comment(0)映画