スタパとプロフェッショナル

月曜は綾野君がスタパに出演なのに運悪くパートのシフトが・・・(T_T)
他の番組(バラエティ関係)は結構録画でも平気だけど、
やっぱりスタパは生だからリアルタイムで見たいのに~。
こればっかりはしょうがない・・・(´・ω・`)
しかも最近暇で早帰りばっかりだったのに、
こんな日に限って定時過ぎまで帰れないし、
たまたま学校の役員の仕事で小学校に寄らなきゃならないし・・・。
で、いつもよりずっと遅くなって帰ってきて、
ごはんを作らなきゃいけない時間まで少ししかなかったんだけど、
とりあえずスタパ鑑賞。
見たらすぐにごはん作らなきゃ! だったのに、
しばらくボー然として立ち上がれなかった・・・。
わーいわーい、2度目のスタパだ!
大河の裏話いっぱい聞けるかなあ(*^▽^*)
って気楽な浮かれた気分で見始めたのが
ばーんと頭殴られたような気分になって、
なんか気持ちがざわざわして料理が手につかず・・・。
前回のスタパ見た後とはまた全然違う気分。
そうか・・・そうだよな・・・、
でも、凄まじいな・・・
という思いがぐるぐる頭をまわっていて。
頭がぐるぐるしたまま、
ご飯作って、ご飯食べて、
ちょっとネットでスタパの感想さがしたりして、
10時からの「プロフェッショナル~仕事の流儀」を見た。
そしたらこちらはこちらで、
作品を生み出す苦しみがありありと描かれたドキュメンタリーで、
巨匠と呼ばれる人でさえ、
一つの作品を生み出すためにこれだけ迷い苦しむんだと
改めて思い知らされるような内容で。
宮崎さんの姿に、スタパで語っていた綾野君がちょっとダブってしまった。
役者とアニメーション映画の監督では全然表現方法は違うし、
二人が抱えていたしんどさは全く違うものだって分かっているんだけど、
虚構のドラマなり、アニメーション映画なりに、
本物の何かを吹き込むために身を削るように取り組む様は
やっぱりどこか通じるものがあるような気がしました。
そうして、私はこういう作り手の「想い」を感じたくて、
映画やドラマを見ているんだよな・・・としみじみ・・・。


で、個別の感想。
スタパはきっともっと軽いノリの撮影裏話的な内容が聞けるのだと
勝手に思い込んでいた気がする。
今から考えると。
ネタバレスレであがっていたような、
殿のお衣装で体育座り~Σ(・ω・ノ)ノ! とか、
柳沢慎吾さんオールアップ時のコントのこととか、
籠城戦中、休憩時間に玉山君とセットの散策していた・・・とか、
そんなノリで。
撮影中は男ばっかりで・・・とか、
所作が大変だったとか、
そういう楽しい裏話が展開されるものだと思っていました。
でも、話されたのはガッツリ演じていたときの状況、気持ち。
容保公は演じていてめちゃくちゃ消耗する・・・っていうのは
「情熱大陸」の密着取材でも入っていましたし、
そういう類のインタビューもいっぱいあちこちで見たけど、
やっぱり、開城を皆に告げるシーンで呼吸が出来なかった話や
その時どう感じていた買っていうのは聞き応え十分でした。
確かに顔がどんどん赤くなってたなあ・・・。
あそこのシーン、容保さまがどう感じたかっていう部分は
すごく複雑な表情をしていたこともあって、
私が読みに行っているブログやツイッターでも
微妙に解釈が揺れていて、
私自身もはっきりと、こう! っていう解釈がつかめなかった部分。
でも、綾野くんのその時感じていた気持ちを聞いたら、
一番すっきりと納得がいきました。
作品の受けてである私達は、ドラマや映画を見るときに、
登場人物の気持ちに心を寄せて見ようとしますが、
カメラを経由した時点で客観的な視点にしかなり得ない。
でも、考えてみれば当たり前のことなんだけど、
役者さんはその場面を自分の主観として体験しているわけで・・・。
それってすごいことだよなあ・・・と改めて思いました。
八重や大蔵やあの場にいた多くの藩士の思いを
自分へのものとして確かに受け止めていたっていうことなんですよね。
そういう綾野君が語ってくれた「主観」の苦労話が、
一気に深みを増したように思えたのは
佐藤B作さんのコメントでした。
綾野君が話してくれたことが「主観」の視点からの話だとすると、
B作さんが話してくれたのはその姿を側で見ていた「客観」の視点からの話。
B作さん、さらっと綾野君が「インカムの声がうるさい」って言ったことや
楽屋で叫んでたってことばらしてくれるし・・・(;^_^A
本来ならこういう部分は、役者さんとしては
白鳥が水面下では足をばたばたさせている・・・ような部分で、
あんまり表には出したくない部分なんでしょうが、
ものすごくB作さんの愛を感じてしまった・・・。
インカムの話は、現場でいかに神経を研ぎ澄ましていたかっていうことの証左だし、
楽屋での叫びは、どこまでも真摯に役に向かい合っているっていうこと。
きっと、他の現場、他の役だったら、
そこまで言うこと(すること)はないんだろうって気がする。
(まあ、役にもよるでしょうが)
やっぱり、容保さまだからこそ、それほど神経を張り詰めないと
成立しない役だったのではないかという気がします。
B作さんは、春頃・・・だったかな?
ちょうど京都守護職を受けた後くらいの時期に、
土曜スタパのゲストに西田敏行さんと二人で出演されて。
その時にB作さんに向けてのコメントで綾野君がVTRで出演したんですよね。
(ちなみに西田さんには綾瀬さんからのコメントだった)
その時は綾野くんがB作さんに対して話したVTRへの感想という形で、
「真面目ですよね。
ときどき、おっ、そうくるか? 
みたいな感じで(演技を)返してくることがあって面白い」
とかなんとか、そんな風なことを話されていて。
その時のコメントに比べて今回はぐっと目線が近くなった気がする。
役者としての立ち位置が近くなったというか・・・。
前はいかにも先輩俳優さんが話している感じのコメントだったのに、
今回は同じ役者としての立ち位置で話してくれたって感じがして。
約1年、綾野君がもがき苦しみながら容保さまを演じている様を
ずっと側で見ていてくれてこのコメントを出してくれたっていうのが
なんだかとってもありがたい気がしました。


綾野くんの話は、演じているときにこう感じていたっていう
すごく抽象的な話だったし、
ちゃんと「八重の桜」を見ていないと分かりづらい内容ではあったんだけど、
でも、ああ、ここ、もうちょっと突っ込んで聞きたいのに!
っていう部分をさらっと流されたり、
終始一定の距離を置いた感じで進行されていたのが残念・・・。
あんまり「八重の桜」好きではない方だったのかな。
どうせなら容保様に思い入れのある人がよかったな・・・(´・ω・`)
二日後ズブン先輩の回も見たんだけど、
「あまちゃん」は大ファンみたいで話を聞くときの反応が全然違ってた(  ゚ ▽ ゚ ;)


スタパの見学をされていた人が
放送終了後のツイートでつぶやかれていたんだけど、
放送後ゲストがスタパに飾るためにサインを書くそうなのですが、
そのサインに「松平容保」って書いて欲しいと言われて
綾野君は
「容保の名前を書けるのは容保だけ」
と、言って、考えた末「松平」とだけ書いたそう。
綾野君らしい・・・というか、なんというか・・・。
容保様をここまで演じてきて、
史実としてではなく、実感として容保様の人生の重みを感じたんだろうな。
名前ってその人そのものを表すものだから、
もう軽々と役名として扱えなくなっちゃったんですね。
綾野君にそう思わせるほど「容保」っていう役は重かったんだなあ。
で、ふと思ったのが、
この考え方って煎じ詰めたら
役に入っていない綾野剛としては容保を名乗らないってこと?
え? じゃあ、藩公行列もなし?(x_x;)
って思って、ちょっとドキドキ・・・。
今、本当に忙しいからスケジュールの調整が難しいとは思うんだけど
出て欲しいなあ・・・。
GACKTの謙信公みたいに毎年だなんて思わないから、
せめて「八重の桜」放送中の今年だけでも出て欲しいなあ・・・。
東北応援、復興応援大河を謳っている「八重の桜」だからこそ、
何よりの応援になる気がするんだけど。


この放送の翌日に正式に大河のクランクアップがあったんですね。
去年の9月からほぼ1年間、
断続的な撮影だったとは言え、
1年もの長きにわたって一つの役を演じたっていうのは
初めてのことなのではないかと思います。
容保さま役はクランクイン当初からずっと他の役と平行していましね。
開始当初は舞台のサイケデリックペインとちょっと重なってたし、
その後アンフェアの撮影もあったし、
おそらく一番撮影が密だった時は
「ガッチャマン」「最高の離婚」それから「空飛ぶ広報室」の前半辺りでしょうか・・・。
他の役と平行しながら、あの緊張感を保つのはさぞ大変だったろうと思います。
ましてや時代劇と言うことで、所作指導や乗馬の訓練、
資料の読み込みといった演技に入るまでの準備も多かったはずで、
もう・・・本当にお疲れ様でしたm(_ _ )m
ただ、スタパの話を聞いていて、
他の役と平行していてよかったのかな・・・とも
ちょっと思いました。
もし詰めて、容保様の撮影ばっかりだったら
精神的にまいってしまったかもしれませんね。
柳沢慎吾さんと佐藤B作さんのコメントVTRを見て、
申し訳なさでまともに見られないほど
容保様の気持ちになっていたんですから・・・。
無理矢理にでも気持ちを切り替える必要があったっていうのは
かえって精神安定上よかったのかもしれない。
ツイッターで午前中は渋谷のNHKで撮影情報が上がっていて、
夕方からは中目黒で撮影しているの見たー!ってツイート見たり、
午前中はドラマの収録があったはずなのに、
夜中までNHKで撮影があったっていう情報を見たりすると、
さすがにこれで身体がもつんだろうかと心配になりましたが・・・(゚_゚i)
とにかく最後まできちんと容保を演じ切れて本当によかった。
放送では後少し、殿のお姿を見ることが出来るわけですね。
明治期の容保さまってある意味演じるのがすごく難しいと思うのですが、
最後までしっかりと見届けたいと思います。





で、「プロフェッショナル~仕事の流儀」
前はこの手のジブリのドキュメンタリーって
日本テレビが作っていたような気がするんだけど、
最近は日本テレビの作る宣伝番組は
ジブリ好きのタレント集めてバラエティ職を強めていて、
密着して製作の過程を追うのはNHKになってきましたね。
前作の「コクリコ坂」の時の映像がかぶっていましたから、
本当にずっと何年もジブリに張り付いて取材してるんだなあ・・・。
ジブリってすごく宣伝方法が上手くって、
作品によってはジブリの内部事情の一部をさらけ出したりして
鈴木さんが作った「ジブリ物語」みたいになってる。
あからさまだったのは宮崎吾郎作品の時の親子の相克ですよね。
鈴木さんによって恣意的に作り上げられた虚像のジブリ像だとは分かっているんだけど、
そういう部分も含めて「ジブリ物語」が大好きなので、
新作が作られる度に放送されるこういうドキュメンタリー番組は
可能な限り見ています。
それでも今回は宣伝が難しかったろうなあ・・・と思っていて。
主人公の堀越二郎に焦点を当てると
どうしても戦争というややこしい問題がひっかかってくる。
「風立ちぬ」は正面から戦争を描こうとした作品ではないから
時代背景として必要な分だけの描写しかされていない。
けれどもそれが余計に、
「戦争がきちんと描かれていない」という批判を招いたり、
真逆の
「戦争(人殺し目的の戦闘機作ること)を賛美している」と批判されたり。
今回のドキュメンタリーのテーマもまさにここでした。
堀越二郎の話を作る。
零戦を設計した人物のアニメを作ると言ったら、
若手のスタッフから人殺しの道具を作った人物の作品を作るんですか?
って言われたそうで・・・。
ここ、ちょっと「空飛ぶ広報室」のリカの台詞思い出してしまった・・・。
改めてドラマスタート時のリカってそんなに少数派の考えでもないんだな・・・と思った。
でも、途中でスタッフから指摘されたって言っていたけれど、
私もそのことに一番引っかかりを感じているのは宮崎さんなんだろうな・・・
って思っていました。
宮崎さんはしきりにそういうことを言ったスタッフに分かってもらうために・・・
みたいなことを言っていましたが、
ホントは宮崎さん自身が納得するための試行錯誤なんだなあというように見えました。
もっと作る前に納得してから制作に取りかかったのかと思っていたので、
あれほど何度も何度も止まって考えて迷っているとは思ってもみませんでした。
ベテランだから、巨匠だから、天才だから、
すらすらと作品が作れるってことは全くなくて、
かえって、ベテランだから、巨匠だから、天才だから
尚更産みの苦しみは深いんだなあ。
と言うよりも、あれだけ深く考えられると言うことが
天才だという証なのかもしれません。
同じジブリの映画作りを追っかけたドキュメンタリーでも、
米林監督や、吾郎監督の場合だと、
作品作りに悩んで立ち止まってしまっても、
最終的に答えがあるんですよね。
少なくともドキュメンタリーとしてそう作ってある気がする。
悩んで悩んで出した表現を、
宮崎さんなり、鈴木さんがOKを出したところが正解。
一つのラインはクリアしましたって答えになる。
でも、宮崎駿監督にはそういうの、ないから。
何をどう表現するか、どこまで表現するかは
すべて宮崎さんにかかっている。
商業的な面では鈴木さんがある程度の意見を言うかもしれないけれど
宮崎さんが自分自身でOKを出さない限り終わらない。
孤独な戦いですよね。
もちろん番組で見せてもらった部分はほんの片鱗にすぎないのだろうけれど
それだけでもなんとなく身が引き締まる思いがしました。


面白かったのは鈴木さんがしゃあしゃあと
「ぽにょ」がつまんなかったって言ってたところΣ(・ω・ノ)ノ!
え? あなたがそれ言っちゃいけないでしょ?(;^_^A
確かに鈴木さんが指摘していたカーチェイスシーンは
「ルパン」の時に比べたらこぢんまりしてしまったけれど、
でも、あの波の表現とかそこを走るポニョの躍動感とかは
宮崎さんらしいと思ったし、
やっぱりあのストーリーの飛躍感とかは
素直にすごいと思ったんだけど・・・。
どっちかというと、ストーリー自体は
結構きっちりと因果関係でもって作っていく宮崎さんが、
ああいう話を作ったというのが驚きで。
話の作り方も一つの挑戦なんだろうなあ・・・とは思いました。
まあ、私も「ポニョ」はちょっと苦手なんですがσ(^_^;)
ただ、そういう語り口も含めて
鈴木さんはやっぱり宮崎さんの扱い方がうまいなあ(^o^;)
宮崎さんのモチベーションの作り方が抜群にうまい。
根っからの編集者なんですね、きっと。
宮崎さんは鈴木さんがいなかったら、
もっと早くに作品作りをやめていたと思う。
また、宮崎駿という天才が持っている才能を
こういうところがすごいんですよ・・・と
外の世界に向けてわかりやすい形で発信するのも上手いですよね。
今回の宣伝活動ではあんまり表には立たれずに、
いくつか見た宣伝番組でもできるだけ自分は映らないようにされていましたが。


二郎の声を庵野さんに決めるくだりも面白かったなあ・・・。
どういう声がいいか・・・っていう感性は
お二方非常に似ているんですね。
ま、気持ちは分からなくもないほど、
庵野氏の声は圧倒的でしたが・・・(^^ゞ
他の作品で通じるとは全く思わないんです。
でも、堀越二郎という人にはぴったりはまっている。
もちろんプロの声優さんでないから
発声、滑舌もそんなによくはないし、
声に感情が上手く乗っているとかというと、そんなこともないし。
でも二郎という人物に生身の存在感を与えている。
これがプロの声優さんだったら、
完成されすぎて薄っぺらく感じたと思う。
宮崎さんの絵が完璧ですから、
そこに安定した声が乗ってしまったら
それはアニメの中の登場人物でしかない。
庵野さんの持っている声質のどっか不安定な部分が
いい感じでアニメーションの枠の中からはみ出して、
不完全な人間らしい存在感を二郎というキャラクターに与えている。
もうとにかく二郎さん大好きで、
二郎さんの声の庵野さんも最近なんだか好きになってきて
auの宣伝で庵野さんが映ると、
無駄にドキドキしてしまう・・・(*v.v)。


その庵野さんがアドバイスしたというラストシーンについて
具体的に触れてくれるかと思ったんだけど
それはなかったですね・・・残念。
庵野さんがアドバイスしたことで大幅に変わったというラスト。
どういう形から変わったのかと興味津々なんだけど
わからずじまい。
宮崎さんが「上手くいっていなかった」と言い、
庵野さんが「なんじゃこりゃ」って思ったという初期形態。
気になってしかたないんですけど・・・。
あんまり「風立ちぬ」関係で、
雑誌の記事とか読んでないんだけど、
どっかに出てるかなあ。
それともそこは秘されたままなのかな。
どっちにしろ、実は見たはずのラストのイメージがあいまいで・・・。
確かカプローニが「君の10年はどうだったね」と尋ねて
二郎が「散々でした、特に最後は・・・」
って感じの答えをして、
菜穂子が現れて「生きて!」って叫んで・・・
で、画面が黒くなって「生きねば」の文字だっけ?
もっと二郎と菜穂子の間に会話あったっけ?
カプローニもなんか言ったっけ・・・。
うーん、やっぱりもう一度見てみたくなってしまった、「風立ちぬ」


というわけで、二人の苦悩する表現者の姿を見て、
非常に密度が濃い1日だった今週の月曜日でした。


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八重の桜~帰ってきた男

今回は脚本クレジットなかった!
脚本協力も!
このまま山本さんだけでいくのか、
それとも断続的に協力が入っていくのかはわかりませんが、
とりあえず今回は山本さん単独の脚本でよかったなあ・・・と思いました。
というのも、今回は結構伏線回収が入っている回だったから。
象山先生の塾で新島少年が登場し、そこに西郷さんが居合わせるというシーン、
そうか・・・ここに繋げてきたか!
って感じで出てきましたね。
覚馬さんが西郷さんから預かっていた薩摩藩邸の跡地を
英学校の用地として襄さんに提供することを思いつく・・・
その為の伏線だったんですね。
道理で西郷さんもあの場に居合わせなければならなかったわけだ。
確かあのシーンは西郷さんの初登場じゃなかったっけ?
豚を逃がしてしまった新島少年を寛容に許す様子に
器のでっかさを感じさせていました。
新島少年も向学心に燃えた才気活発な少年ということを印象付けていて
おおっ! 後半のメイン人物となる襄は
やっぱり序盤から無理してでも登場させるんだな・・・
くらいに思っていたのですが、
ちゃんとこの展開を考えてのあのシーンだったのですね。


も一つ、襄の台詞も過去のシーンを想起させるものでした。
槇村さんに女性の好みを気かれて
「東を向いていろと言われたら、3年でも東を向いているような女性は困ります」
って答えるところ。
これ有名な言葉なのだそうですね。
うらさんを表した言葉と見事に真逆( ´艸`)
この言葉がのちに襄の口から出ると知っていたからこそ、
うらさんを紹介するときにああいう表現を使ったんですね。
視聴者は一瞬、会津にいるはずのうらさんに心を馳せて、
そんでもって覚馬さんの様子をうかがっちゃう・・・(・ω・;|||
この襄さんの台詞、覚馬さんはどう聞いたんだろうって。
うらさんのことちょっと思い出したかな。


たぶん会津編にはそういう細かな仕込みがいっぱいあるんだと思うんですよね。
それをきっちり拾って行けるのは山本さんなのですから、
できればこのまま山本さんが書いた脚本で
ドラマを見ていきたいなあって思うんです。
きっちりした仕込みでなくても、
ちょっとしたアイテム、ちょっとした言葉で会津編を想起させてくれれば
それだけで京都編の意味も深まると思うんです。
今回はそういう会津編とのつながりが強く感じさせてくれた回で
すごく好きでした。
襄も格好良かったしね(o^-')b


今回は浩登場!
久々に双葉さんも。
官兵衛も出てきました。
こうした会津編で活躍した人達が出てくると
なんだかそれだけで嬉しい(^~^)
そっかあ・・・官兵衛さんは警官やってるんだ・・・。
なんか似合ってる。
健次郎さんはすっかり立派になって帰ってきて、
なのに帰って挨拶もそこそこに
双葉さんに帽子を質草にされちゃう・・・って( ´艸`)
浩はすっかり家長としての貫禄が出て来ました。
こういうとこ、玉山君が持っている落ち着いた雰囲気が活きてくるよね(〃∇〃)
え? 片腕ない?((゚m゚;)
ってびっくりしたら、どうやら着物の中で腕を吊っているそうで、
ちゃんと腕はあるそうです。
ただかなりの重傷でほとんど左腕は使えなくなったとか・・・。
この辺りのエピソードや経緯は、台詞で済まされちゃった・・・(;^_^A
今まで京都パート、会津パートと別れていたのが、
京都編では八重のいる京都パートと山川家の東京パートって感じで
もうちょっと会津藩士達出てくるかな・・・って思ったんですが、
京都編は完全に八重のいる京都中心で、
他の部分は添え物程度みたいですね・・・(´・ω・`)
ついでに政局も。
「八重の桜」は八重の話なので、仕方ないと言えば仕方ないのですが・・・。
要所要所でこんな風に会津藩士たちのその後を紹介する感じで
登場してくるのかな・・・浩。
でも、こういうシーンがちろっと入るだけでも
会津編とのつながりが感じられて嬉しかったりする。
みんなそれぞれ苦労しながらも、
新しい世で一生懸命生きているんだなってわかるし。
来週は浩も出るみたいだし、殿も出るんですよね・・・。
もう殿じゃなくなった容保様が、
画面の中にどう存在するのか・・・楽しみなような、不安なような・・・。
でも、やっぱり、楽しみかな。


今回覚馬が八重に聖書を習わせていました。
山本家がキリスト教にシフトしていく理由がわかりやすく描かれていました。
覚馬さんは全てを飲み込んで冷静に
薩摩出身者にも長州出身者にも関わって生きているけれど、
内心では会津を救えなかったって忸怩たる思いが今もしっかりあるんだなあ・・・。
その思いを新しい世の為にと必死で変換しながら生きているんだけど、
やっぱりどうしようもないものがあって・・・っていうのを
穣さんとの会話で匂わせてくれました。
覚馬さんって京都編に入ってからはすっかり先生然として
いろんな人に意見したり命令する偉い人物になっちゃてるので、
内面の苦悩みたいなのをちらっとでも見せてくれて
なんだかほっとしました。
中身は会津の頃の熱い覚馬さんなんだな・・・と思って。
一方覚馬さんの兄心がちっとも分からない八重さん。
確かにキリストの教えは、あまりに八重さんの感覚からずれていますもんね。
わからない・・・ということを率直に先生に言う八重さん、かわいい(*^.^*)
八重さんが背負ってしまった重いものから解き放たれる為には
キリスト教徒と、その教えを体現した襄の存在がいるのだな・・・。


八重さんと襄の井戸のシーン、とても素敵でした。
これも事実なんですね。
井戸の上でも平気ではしゃぐ八重さんかわいかった。
「新島さまは男のくせに怖がりだなし」
って、違うから!
いくら暑くったって、勇気があったって
普通井戸の上に座ったりしないから!
「ご婦人は守るべしだと教えられてきたので」
という襄さんに、
「守る? 私を?」
と、急に真面目な顔になる八重さん。
「私は守られたいと思ったことはありません」
たぶんこの台詞だけだったら、
八重さんの気の強さだけが強調されたと思うんだけど
「人に守ってもらうようなおなごではねえ」
って続いたので、そうではなくて、
八重さんが背負ってしまったもののことを言っているんだなあ。
八重さんは、強いから。
それは、例えば気が強いとか、情が怖いっていうものではなくて
男勝り・・・というのでもきっと言い方が足りなくて、
まさに男として戦った経験があるっていうこと。
戦で人を殺したという経験と、
負けて大切な物を踏みにじられてしまった悔しさを
7年たっても消せない自分がいて。
そんなこんなも含めての、
「守ってもらうようなおなごじゃねえ」
その後覚馬さんから詳しい事情を聞く穣さん。
覚馬さんや八重さんの苦しい胸の内を知ります。


八重さんが佐久さんに再婚の話をほのめかされてなんとなくごまかしたのは、
そんなことを望んでも相手がいないって思っていたからじゃないかな。
再婚する気もあんまりなさそうだけど、
もし再婚するとしても、
自分のような女を妻として受け入れてくれるのは尚之助さんくらいで
尚之助さんが迎えに来てくれたら喜んで復縁するけれども、
それ以外の可能性は考えられないから、
尚之助のことを待つとはなしに待ってしまっているというか・・・。
籠城戦前の八重ならば、
単に鉄砲好きの跳ねっ返り娘で済んでいたんだろうけど。
そういう単なる跳ねっ返り娘である段階で(しかもその時は妙齢だったのに)
すでに縁談はなかなかまとまりませんでしたよね。
規格外の娘と結婚したがる男性はそうそういません。、
結局八重さんを妻として迎え入れられたのは
当時としては非常に進歩的だった尚之助さんだけで。
たからきっと八重さんは自分を女として受け入れてくれる人は
尚之助さんしかいないと思いこんでいるんだろうなあ・・・。
ましてや実戦を経験してしまった自分を、
受け入れるような奇特な男性はいないと思ってるんじゃないのかな。
今までの描写で、八重が籠城戦中に銃を持って戦ったことを
知っている人はけっこう多そうだし。
あの時代、そんな話を聞いたら、
まず嫁さんに・・・とは思ってもらえないだろうし。


でも、穣さんは内戦で傷ついた人の心を救いたくて、
憎しみを越えて行く力になりたくて日本に帰って来た人。
まさに八重さんや覚馬さんのような人を救いたいと思っていた人です。
しかも考え方が西洋的で
八重さんのように自身の意見をしっかり持った女性を受け入れられる人。
まさに八重さんにうってつけの旦那様ですよね(b^-゜)
尚之助さんにしろ、穣さんにしろ、
こういうタイプの男性は当時少なかったはずなのに、
(なにせ自由民権運動を叫んでも
家では女性蔑視の暴君なんて人がざらにいた時代)
八重さんは本当に恵まれているよなあ・・・。
というか、現代でもかなり貴重だよなあ、
尚之助さんや穣さんのような人。
ま、尚之助さんに関してはどんな人だったかというところまでは分かっていないので、
あくまでも「八重の桜」での長谷川尚之助ってことなんだけど。
穣さんはまぢでああいう人だったみたいで、
すごいよなあ・・・。

次回は殿だ・・・。


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風立ちぬ

「風立ちぬ」ようやく見ました~。
賛否両論あるみたいですが、私はこの作品大好きでした。
今まで宮崎作品の中では「ハウルの動く城」が一番好きだったのですが、
この作品も一二を争うくらい好きかも・・・。
というのも、なぜ「ハウル・・・」が好きかというと、
あの作品が持っているいびつさなんです。
「もののけ姫」以降の宮崎作品は、
なんらかの形でいびつさを持っているとは思いますが、
一番宮崎さんが苦手そうな分野にあえて突っ込んで、
やっぱり突っ込みきれなくて、
むりやり自分の世界観に持ち込んでしまっている感じが、
何とも言えず好きで・・・(;´▽`A``
なんか歪んだ「好き」ですよね・・・。
で、今回の「風立ちぬ」も、
そういうなんともいえないいびつさを持っている作品な気がしました。
だから、すごく、好き。


宮崎さんって「アニメ映画はこうあるべき」という
確固とした信念を持ってる人ですよね。
自分たちは子供達の為にアニメーションを作っているんだ!
っていう思いがものすごく強い。
この作品は子供達が見るに値する作品か・・・っていう基準が
明確にあるっていうか・・・。
そういう部分を他者にも要求してしまって、
ジブリでは新人が育ちにくかったような気がする。
若い人が好んで用いるような、
あいまいな表現って嫌いですよね・・・宮崎さん。
微妙なニュアンスで伝えるような・・・。
だから宮崎さんは基本的に宮崎さんの中で明確なテーマを持って
作品を作っている。
でも、そういう宮崎さんが
時々自分の殻をぶちこわしちゃうような作品を作ってくる。
子供に見せるという視点を横に置いて
自分の描きたい物を優先させる・・・みたいな。
(あ、この辺私の勝手な分析です(;^_^A)
最初は「紅の豚」だったんじゃないかと思います。
「トトロ」「魔女の宅急便」と立て続けに女の子を主人公にした作品を作って
押さえつけられていた宮崎さんの男の子魂が
むくむくとわき上がって来たんでしょうね。
主人公をおっさん(しかも見かけは豚)にしちゃった!
しかも自分が大好きな飛行機をいっぱい出して。
子供向けのアニメーションで主役が大人の豚
という話は、宮崎さんにとってすごく冒険だったんでしょう。
でも、この作品、確かに主人公は大人だし、
ちょっと時代遅れになりそうな男の美学を主題にしているから
子供向けではないんだけれど、
それでも物語の作り方はちゃんと子供も楽しめるように作ってあります。
アニメーションの魅力いっぱいの海賊達の動き、
分かりやすくメリハリの利いたストーリー展開。
男の美学なんて分からなくても、
主人公が抱えている心の傷や、
男と女の間の微妙な関係・・・といった部分は分からなくても、
幼稚園の子供が見たってちゃんと楽しめる作品になってます。
次に宮崎さん思い切ったなあ・・・って思った作品は
「もののけ姫」でした。
これは「ナウシカ」でうやむやにしてしまった自然と人間の関係を
この当時の宮崎さんなりに決着をつけた作品ですよね。
人間が行った愚かな行いによって生まれた腐海。
その腐海からまき散らされる毒に怯えながら生きる人間。
あの映画、ラストがすごく感動的で「いい話だなあ」ってごまかされちゃうんだけど、
実質的に腐海問題は解決されていませんよね。
ナウシカが生き返ったところで、
やはり腐海問題は残されたままで。
そこで残された人間と自然との関係を
「もののけ姫」では描いていて。
この映画見たときは本当にびっくりしたものです。
宮崎さんがエンターテイメントを捨ててしまった・・・と。
宮崎アニメの持つ明るく楽しい部分はぐっと減って
ストーリーもメッセージ生の強い、情報を詰め込んだものになっていました。
アニメの楽しさよりも「言いたいこと」が前面に出た作品。
そして何より、結論として、
人はよりよい暮らし、技術的な発展を望む以上、
自然を破壊するという行為はやめられない。
けれども共存する方法はあるのではないか・・・
ってな感じで、結論とも言えない曖昧なところで最後終わっていて。
「ナウシカ」の時に明確に感じた自然を破壊するという行為への単純な憎悪が
人の業を受け入れるような大人の視点になっていて。
「ナウシカ」から「もののけ姫」の間の宮崎さんの思想の成熟を伺える内容になっていました。
ただ、渾身のシシ神さまの描写で、
失われていく自然への痛切な懺悔は滲ませながら。
「もののけ姫」は明らかにそれまでの作品と違った形だったので、
当時、引退するつもりなんだろうな・・・と思ったものです。
実際そんな話も流れていましたよね。
結局なんだかんだで(おそらくジブリの存続の問題)で引退されず・・・。
でもこの後の作品って、
もう「ラピュタ」や「トトロ」や「魔女の宅急便」みたいに
きれいにお話がまとまるタイプの作品がなくなって、
どこか破綻したストーリーになっていくんですよね・・・。
それも一人の作家の作品の変遷として面白いなあって思ってて。


でね、今回の「風立ちね」です。
「もののけ姫」ではエンターテイメント性は捨ててしまったんだけど
まだストーリー性はあったと思うんです。
でも、「風立ちぬ」では明確なストーリー性までも捨ててしまったんだなあ・・・
と思いました。
完全に大人の映画になっている。
この映画に不満を感じている人の何割かは、
このストーリー性がない部分に不満を感じているっぽい。
本来描かれなければならないはずの零戦の戦闘シーン、
そして菜穂子の死は描かれないまま終わるので、
著しくクライマックスを欠いた印象が強いみたいで。
でも、こういう作品って実写の映画ではよくありますよね。
淡々と事実を追っかけて、ラストはあっさりと終わってて、
余韻を楽しむような映画。
特に小規模で公開される邦画ってこういうの多い気がする。
シーンとシーンのつなぎ方も今までの宮崎作品というよりは
実写映画の感覚に近いなあ・・・って思いながら見ていました。
ちょっと八重の桜に似てるかな。
時系列に従ってエピソードを並べていく感じ。
え? この後どうなるの? って思った次には
すっと時間が飛んで全然違う場所になっていたりする。
今までの宮崎さん、特に「もののけ姫」以前の作品は
エピソードが有機的に連鎖していって明確なクライマックスがあって・・・
っていう序破急の物語構造をきれいに守っている。
「もののけ姫」以降の作品も
ラストの展開が性急でとってつけたようになっていたり、
イメージの飛躍はあるけれども、
やっぱりクライマックスの盛り上がりはちゃんと作ってある。
でも「風立ちぬ」にはそういう分かりやすい盛り上がりはなく・・・。
いつもの宮崎さんの作品を期待していたのならそりゃ期待外れだったろうなあ・・・と(;^_^A
私的には児童文学的なイメージの飛躍がある「ポニョ」よりも
ずっとずっと見やすいと思いました。
ポニョは子供のほうが素直に楽しめる作品だと思いました。
あれは展開がどーの、結論がどーのって
理詰めで語るとどんどん本質の面白さが削がれていく作品だと思う。
「風立ちぬ」は完全に大人の鑑賞を目的に作られた作品。
宮崎さんから子供の視点という縛りを取ったら、
こういう映像の作り方をする人なんだ・・・と思って
新鮮な感動がありました。
絶対に撮らないとは思うけれど、
宮崎さんが実写の映画を撮ったら面白いかも・・・ってちょっと思った。
70歳を越えてなお、宮崎さんの新しい面を見せてもらったっていう意味で
とても興味深い作品でした。


一方、宮崎さんはやっぱり宮崎さんで、
これはもう変わりようがないのかな・・・って思えた部分もあって・・・。
恋愛描写、特に告白のシーンの唐突さ、淡泊さは
もう、なにをどうやってもああなるんですね・・・(^▽^;)
いきなり二郎さんが菜穂子さんのお父さんにプロポーズしたときは
・・・ずっこけました。
そこにやって来た菜穂子さんも速攻でOKしてるし・・・Σ(・ω・ノ)ノ!
恥じらいとか、照れっていうのは全くないのか・・・ヽ(;´ω`)ノ
宮崎さんは恋愛を描くときに、
一般的な感覚にあるような告白のドキドキっていうのは
興味ないんだろうな・・・(-。-;)
「未来少年コナン」のコナンや「ラピュタ」のパズーと同じような
率直さ、素直さはそのまま二郎さんにも受け継がれているような気がします。
「好き」って思ったらすぐに「好き」って口にする。
そんでもって、コナンやパズーが持っているような、
宮崎作品のヒーロー資質の多くは
二郎さんにもちゃんと付加されているように思いました。
少年期に河原でいじめっ子からいじめられている子供を助けたり、
震災の時に迷いなく菜穂子と同行の女性を助けたり、
女性がケガしてるってわかったら背負って連れて行ってあげようとしたり、
要所要所でヒーローっぽい行動を当たり前のようにしている。
でも、悲しいかな、「風立ちぬ」では主人公に
アニメーションならではの特殊能力は付加されない。
超人的な体力もどこまでも飛べそうな跳躍力も
女の子をお姫様抱っこして走れるような力も。
震災の時に女性を背負って逃げようとして、
線路でこけた瞬間思い知りました。
あ・・・この人は普通の人なんだって(;^_^A
ラナを背負って垂直の壁を登れちゃうようなコナンとは
根本的に違うんだって。
ヒーローの心を持ちながら普通の人の人である二郎さんは
恋愛でもそういう面を持っているような気がします。
結核という病をもっている菜穂子にプロポーズするっていうのは、
命がけの行為ですよね。
ましてや病院を抜け出した菜穂子と結婚し
かなり濃密な接触をしながら共に生活するなんて。
敵に捕らわれたラナを取り返すために単身で適地に乗り込むコナンや
ムスカに捕らわれたシータを炎の中から救出するような
自らの命を省みない行為。
コナンやパズーみたいに格好良くないけれども、
そっと菜穂子の側に居るだけだから分かり難いけれど、
二郎は二郎なりに命をかけて菜穂子の病気(運命)と戦っている。
宮崎さんの変わらないヒロイズムが見え隠れしているような気がします。


菜穂子のほうもまた宮崎作品のヒロインたる資質を備えていて。
ナウシカやサンのようにもともと強いお姫様はちょっと違うんだけど、
一見男の子に守られているだけのようなラナやシータでさえ、
土壇場では自ら敵と対峙してはっきりと自分の思いを告げたりする。
一緒に敵を倒そうとする。
すぐに手折れてしまいそうなくらい弱いように見えて、
芯はしっかりと強いというのが宮崎アニメのヒロイン達。
菜穂子が最期の最期に病院に帰ってしまうのは、
そういう宮崎アニメのヒロインの資質を強く受け継いだ
とても芯の強い女性ということを表現しているのだと思いました。
女としてはとてもわかりやすい我の通し方ですよね。
美しい所だけを見て欲しい、覚えていて欲しいというのは。
それを実行するのはなかなか難しいものですけど。
菜穂子が山から下りて二郎の元にくるのは
決して二郎さんに自分を支えて欲しいからじゃないんです。
死と向き合う恐ろしさから逃れたいわけじゃない。
ただ、自分に残されたわずかな時間を
大切な人と過ごすことで命を燃やして生きたいと思ったから。
出来る限りの方法で生を全うしたいと思ったから、
大好きな二郎の側に来た。
いよいよ死が近づいて、
死と真正面から対峙しなくてはならないほど病状が進んだ時点で、
彼女は一人で死と向かい合うために山に帰ったんです。
きっと二郎にとっては酷な選択だったと思います。
側に居て一緒に戦ってやりたかったと思います。
一緒に戦うつもりだったんだと思います。
でも、叶わなかった。
菜穂子の行動を、男にとって都合のいい女と解釈して、
そういう論調でこの作品を批判している人が結構多くてびっくりしてしまったΣ(・ω・ノ)ノ!
え? 菜穂子は二郎の人生のお飾りじゃないし、
人形のように意志のない都合のいい女でもない・・・と私は思うんですけどσ(^_^;)


菜穂子と二郎を結ぶのは、
例えば風に飛ばされた二郎の帽子、菜穂子のパラソル、
二郎の試作品の鳥のような形をした紙飛行機、
もっと気合いの入ったゴムで飛ばす式の紙飛行機
そして紙飛行機を取ろうとして落としてしまった菜穂子の帽子・・・。
そういもののやり取りを通して二人の心がだんだん近づいてきて
惹かれ合っていく様子が映像から伝わって来る。
非常にアニメ的で自由なイマジネーション溢れる表現。
二郎の夢の表現と共に
アニメーター宮崎駿の面目躍如ともいうべきシーン。
さきほど、宮崎さんの恋愛表現はストレートすぎと書きましたが、
そこに至るまでの表現はとても工夫されていると思います。
告白やプロポーズに関しては徹底的にストレートな表現なのですが・・・。
二人の間で行き交うものたち、
どれも二人の間に吹いている風を視覚的に分かりやすく見せる道具ですよね。
二郎と菜穂子の間を取り持つのは風。
カプローニと二郎のシーンでも風は常に出てきました。
カプローニは二郎に繰り返し言います。
「そこに風は吹いているのかね」
そういえば二郎さんが口ずさむ「風」の詞もありますよね。
この抑揚のない語り方すごく大好きでした(*⌒∇⌒*)
  だあれが風を 見たでしょう
  僕もあなたも みやしない
  けれど木の葉をふるわせて
  風は 通り抜けていく
劇中に繰り返し登場する風。
タイトルも「風立ちぬ」だし。
菜穂子と二郎の間に吹く風と
夢の中でカプローニさんと二郎に吹く風は違うのかな。
この作品の中で風って何を意味しているのかな・・・
そんなことをつらつら考えて、
今なんとなく思っているのは、
「風」って言わば「想い」みたいなものじゃないかと。
「情熱」とか「夢」とか「愛」なんて言葉にも置き換えられる
言わば「生きる糧」ともいうべき心のありよう。
二郎は飛行機に対する愛と菜穂子に対する愛に突き動かされるように
カプローニの言う「創造的人生」を生きる。
けれども「創造的人生の限界」と言われた10年を過ぎて、
二郎に残ったものは、
戦争の中で散っていった自分の飛行機の残骸、
菜穂子の死。
自分が設計した飛行機を完成させて、
その飛行機が美しく空を飛ぶのを見届けて、
自らの才能が形として結実した、
本来なら万々歳な二郎の人生。
でも、二郎の前に広がるのは茫漠とした草原で。
不覚にもこの辺りで涙が出てしまった・・・(ノ_・。)
二郎さんには(飛行機の設計という)冒険が終了した後の高揚感も
愛する人との人生も何も残らなかったんだと思って。
それは今までの宮崎作品の中でも一番シビアなラストを与えられたってこと。
私達は二郎さんが作った零戦が、
実際の戦争でどのように使われたのか知っている。
その機体にのってどれだけ若い命が散っていったか知っている。
あの短い飛行機の残骸のシークエンスで
それらの知識を喚起させるには十分。
私的にはそれでいいじゃないかって思えたんですよね。
台詞としては表現されてないけれど、
あの茫漠とした(ように見えた)草原が全てを物語っている。
二郎さんは罪は感じていないと思うけれど、
事実の重みは背負って生きたんだと思う。
少なくとも「風立ちぬ」で描かれた二郎さんは
そういう感性を持った人物であるように思えました。
零戦を作った責任を!と言う人は、
ここで二郎さんに懺悔の言葉を言わせれば、
それで納得いったのだろうか・・・。
「私が作った戦闘機で大勢の大切な命が失われました。すみません」って。
でも、そんなことを言ったら、
戦時中、例えば軍事工場に徴用されて戦闘機の部品を作っていた人達も
戦後ずっと懺悔して生きなければいけないんだろうか。
そういう人はたくさんいたはずで、
当時戦争行為に全く荷担せずに生きた人のほうが少なかったんじゃないのかな。
でもその行為だけを取り出して個人をせめるのは
なんか納得いかない。
この作品で描かれた喫煙行動を批判したばかげた抗議活動と同じくらい納得いかない。
その時代、その時代で、肯定されるべき正義は違って、
人々を取り囲む日常も全く違う。
「八重の桜」の感想でも何度も書いたけれど、
現代の価値観でもって、現代の感覚で
過去に生きた人物を断罪するのは、違うと思う。
ただね・・・従来の宮崎さんは、
真っ先にこの映画のラストのような表現に反発していたんじゃないかな・・・
って気はするんです(;^_^A
子供に見せるアニメーションでこんな戦争を肯定しかねないラストはいかん!って。
だって、誰よりも戦争嫌いな人じゃないですか。
戦闘機があんなに好きなくせに。
それをこういうラストで締めたって言うのは
やっぱりこの作品が「子供向け」という大きな縛りから解放された作品であるということと、
宮崎さん自身が自分の中の
戦争は大嫌いだけど戦闘機は好きという矛盾した感情を
それはそういうものとして受け入れられるようになったということなんだろうと思います。
「もののけ姫」で自然が破壊されていく現象を憎みながらも、
人が人として生きて行くには自然を破壊することからは逃れられない・・・
っていう現実を受け入れて、
自然の立場に立つサンと、人間の世界で生きようとするアシタカを
共に否定せずに、それぞれ別の生きる場を求める・・・という方向で決着させたように、
戦争は反対だけど戦闘機は好きという自己矛盾を
善にも悪にもカテゴライズせずに、
その時代に生きた人の物語としてそのまま描いた所に、
作品としての意味があったように思えます。
そして、その二郎に対して、想像の中の菜穂子に
「生きて!」
と叫ばせ、最後に真っ黒なバックに力強い文字で
「生きねば」
と出したのは、
自分の10年間を精一杯生きた二郎さんに対するエールであると同時に、
現実に何かを失って立ち止まっている多くの人達に対するエールなんだな
と思えました。
そして、おそらくは、宮崎さん自身への・・・。


で、いろいろ書いて来ましたが、
ぶっちゃけ私がこの映画が好きなのって、
二郎さんが好きなんです、きっと。
こういうタイプの自分の世界に入り込んで
何かを生み出していく天才型の人、大好き(〃∇〃)
結局はこの映画の好き嫌いって
二郎さんのそういうキャラクターが受け入れられるかどうかなのかもしれません。
少年期の二郎さんももちろんかわいいなあと思いましたけど、
青年期に入ってからはもうドツボで・・・。
製図台に向かう姿、計算尺を使っている姿(特に後ろ姿)に惚れ惚れ・・・(///∇//)
この人実写で見てみたい・・・って思った
宮崎アニメの登場人物って初めてかもしれません。
というのも、途中から二郎さんに空井君の姿を重ねて見ていたからで・・・(;´▽`A``
二郎さんの戦闘機好きと空井君の飛行機オタクっぷり、重なりません?
空井君はリタイアしたとは言え一応パイロットになって、
二郎さんはパイロットを諦めて設計に進みましたけど。
二郎さんが
「美しい飛行機を作りたい」
って言ったときは、空井君の
「飛行機は美しいから飛ぶんです」
が重なって聞こえました。
こういう表現は飛行機好きの人達の間では当たり前の表現なんですかね?
私は「鳥人間コンテスト」っていう番組が好きで
毎年出来るだけ見るようにしているのですが、
見ていて美しい形のものは確かに飛行距離が長いですから
すごく実感としてわかる気がします。


でね、最後にもう一回もとの話を蒸し返すと、
二郎さんは結局は人を殺す道具を作っていたのに
そのことに対する思いはないのか・・・という議論。
それって「空飛ぶ広報室」でも同じ問題を抱えていて、
幸い空井君が生きている時代は現代なので
「戦闘機は人殺しの道具でしょ」と言いはなったリカに対するアンサーとして、
「女性は戦いたい(だっけ?)から護身術を守るわけじゃありませんよね。
それと同じです」
って上手いこといっていて、
ああなるほどそうだよなあ・・・自衛隊の姿勢を表現する言葉としては
なかなか上手いなあ・・・って思っていたんだけど、
でも実際に戦争が起これば、明らかに自衛隊でも戦闘状態に入るわけです。
空井君の大好きな戦闘機も人を殺す道具として用いられてしまうわけです。
「空飛ぶ広報室」は作品として上手いことその辺のことごまかしたなあ
って気がしなくもないです。
ただ作品としてはあれでよかったんだと、(原作もドラマも)
今でも思っています。
虚構である作品が一つの観点や価値観に縛られてしまうと
自由な表現が出来なくなってしまいます。
きちんとその作品の中で筋が通っていれば
事実や現実をどんな方向から描こうがそれは自由でしょ?
ただ、受取手である私達がそのことをきちんと自覚している必要があるとは思います。
受け手側の成熟度が要求されているってことなんですよね。
作品を見て何を感じても、それは受取手の自由。
でも、自分が思う価値観がその作品の中にないからと言って
「○○が描けていないからこの作品はダメだ」
ということにはならないと思うんです。
上手いこと言えないんだけど・・・。
「風立ちぬ」の評をいくつか読んで感じていたもやもやと、
最近「八重の桜」や「空飛ぶ広報室」で感じていたもやもやが
どっか似通った部分があるなあ・・・と思っていたもので、蛇足ながら・・・。


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posted by HaHa at 00:48Comment(0)映画