「それでも、生きていく」最終回

最終回からもう1週間になるのですね。
「それでも、生きていく」がない木曜はさみしくて、
なにか忘れ物をしてしまった時のように心許ないです。
遅くなりましたが、最終回の(というか作品全体の)感想。

ドラマの最終回は案外今までの話をうまく納めることに終始して
あんまり面白くないことが多いのですが、
「それでも、生きていく」の最終回は
物語の核はここだというところを
きっちりと見せてくれました。
洋貴と双葉がくっつくかくっつかないか、
という観点で見れば残念な結果に終わったし、
こういう恋愛モノとしての基準だけで物語を見れば、
双葉が最後に選んだ道は理解しがたいものかもしれません。
けれどもこの物語が「被害者家族」と「加害者家族」が
つながっていく物語だと考えると、
彼女の選択はまさにそれしかあり得ない道に思えるのです。
通常で考えれば、「加害者家族」と「被害者家族」が交流を持つなんてことはありえません。
けれども、そのあり得ないほど立場が隔たった者同士でも、
実際に会い、話し、時には怒りを直接にぶつけることで、
心と心のどこかがつながっていくと言うことは、ある。
その「ある」という感覚を丁寧に丁寧に10話分の時間をかけて描いてきたのが
このドラマだったんだと思います。
例え戦争における敵味方でも、事件の加害者被害者でも、
違った民族同士でも、異なる宗教であっても、
一人一人の人間として向き合えば、そこに何らかの交流は生まれる。
そこに希望をつなごうというのが、このドラマだったんだと思います。

思えば、双葉が思い切って洋貴を尋ねたところからこのドラマは始まりました。
そして彼女のその無謀な行動が、
やがてほかの家族をも巻き込んで、
二つの家族を1歩前へと進ませた。
最終回で双葉がとった、
兄がおこした事件の被害者家族の家に行き、
被害者の娘の母親代わりとして生きる・・・という選択は
確かに唐突だし、そんなことをしても何にもならない、
加害者の妹が娘を育てるなんて被害者の救いにならない・・・、
というように考えることもできます。
確かにそれも正論ですが、
加害者の妹である双葉が被害者の家族に直接関わっていくことは、
きっと何かを前に進めるはずです。
少なくとも、お互いに避け合うようにして15年間過ごしてきた
洋貴の家族と双葉の家族のような、
お互いがお互いの事情を知らないことから生まれる余計な苦しみを抱え込まなくて済む。
もしもゆりちゃんがもっと大きくなり(ゆりちゃんは今5歳)
母親が植物人間状態になってしまった理由を知る時が来ても、
きっと乗り越えていけると信じられる。
それだけの時間をゆりちゃんと双葉は積み重ねていけると思います。
そういう生き方は双葉にとって幸せとは思えないけれど、
そりゃあ、いろんなことに目をつぶって洋貴と生きて行くほうがずっと幸せに違いないけど、
双葉自身がその幸せに安穏と浸って生きることを自分で自分に許せなかった。
それは、妹を喪って苦しんできた洋貴やその母の姿を間近で見てきたからだし、
娘を植物人間にされてしまった草間さんの悲しみを知っているから。
知っていながら、いざ犯人である兄が死に直面したとき、
思わず兄の生還を望んでしまった。
兄の死を誰もが望んでいる、
自分もそうなるのが一番いい方法だと理性では語って置きながら、
その「死」に直面すると本能的に妹として
兄に死んで欲しくない・・・
と祈ってしまった。
そんな自分の行動の贖罪としての意味だったのではないかと思います。
生き残っても自分の犯した罪に正面から向かい合えない兄に代わって、
兄の罪を背負う。
それはとても双葉という女性の人間性を表していると思いました。
そして双葉でしかできない役割だと思いました。
物語の最後、双葉が手紙の中で
「私がつないだ誰かの手のその先で、誰かがあなたの手をつなぎますように」
と書いたその言葉は、
洋貴が書いた
「つないだ手の思いが届きますように」
と言う言葉は、まさにこのドラマの核心を表しているように思いました。
人と人はどんなに隔たっているように思えても、
きっとつながることができるのだ、と、
その祈るような思いがいっぱいにつまったドラマでした。

さて、人とのつながりを主軸において描かれたドラマでしたが、
その中で誰よりも人とのつながりを断ち切られた存在である三﨑文哉という青年。
実の母とは5歳の時に死別。
本人は母親の死は自殺だと言っていますが、真実はわかりません。
ただ、文哉自身がそう感じていることが重要で、
彼は育児ノイローゼになって母親が自分たちを捨てて自殺したと思っている。
実の父は罪を犯した自分を捨て、自分の居場所を探しもしないどころか、
街であっても見て見ぬふり・・・。
(医療?)少年院で自分に近づいてきた看護師も自分から逃げ出した。
すがるように訪れた母の実家にも
「あれは勝手に結婚して勝手に死んだんじゃけ、もう関係ない」
と冷たく切り捨てられ・・・。
洋貴の母親である響子と対峙した時、文哉は椅子で強く頭を殴られたのですが、
その時私は脳内出血が徐々に進んで最終回で文哉は死んでしまうのではないかと思ったんです。
そうすれば、文哉のことを一番憎んでいる響子の手である種の復讐が遂げられるわけだし、
文哉の家族も2回目の事件の被害者家族も
文哉が死んで救われる人はたくさんいる。
何より文哉自身が一番救われるのではないかと思ったのです。
あの時響子が見せた母親の権化ともいうべき姿、
子を思う母のあまりにも強い思いは、
文哉自身が決して向けられたことがないものでした。
肉親のかけがえのない愛情を受けたことがない彼が、
その象徴とでもいうべき響子の手によって殺されるのなら、
彼自身は自覚できないにしろ、
何か救いのようなものがあるのではないかと思ったのですが、
いやいや、坂元さんは文哉をそんな分かりやすいところで納めておくことはしませんでした。
そんなに簡単に文哉に救いを与えませんでした。
坂元さんが文哉に与えた希望の光は一つ。
母の顔。
文哉は亜季ちゃんを殺した時のことを
「お母さん、助けて。お母さん、助けて・・・でも、どうしてもお母さんの顔が思い出せないんだ」
と語っていました。
因島に祖父母宅を尋ねたのも、忘れてしまった母の写真を捜すため。
そして、初めて自分に真正面から向かい合ってくれた父にも
「お母さんの顔が思い出せないんだ。どうやっても、お母さんの顔が思い出せなくて・・・。なんで、
お父さん、なんで? なんでお母さんの顔が思い出せないの? お父さん、助けて、助けて・・・」
とすがるように救いを求めていました。
思い返せば、第1回の時、洋貴が同じことに苦しんでいました。
どうしても殺された妹の顔が思い出せない・・・。
それは、事件から目を背けるように生きて来た証。
洋貴が15年前の事件に向き合おうと決心できたのは、
父が大切に保管していた亜季ちゃんの遺品から記憶をつなげて、
ようやく亜季ちゃんの顔を思い出せたから。
洋貴が亜季ちゃんの「顔を思い出す」ことによって前に進めたように、
文哉が母の「顔を思い出す」ことで前に進めるかどうかは分からない。
けれども、母の写真を見て涙を流したその様子から、
私達は文哉のこれからの人生に少しの光を見いだすことができます。
ここから彼の何かが変わるかもしれない。
もしかしたら、朝日が昇るのを見て、
新しく始まる一日を思う日が来るかもしれない。
そして、その新しい一日を心待ちにする機会を自分が永久に奪ってしまった人がいることに
気付く日が来るかもしれない・・・。
もちろんそんな簡単に改心したり反省したりということはないだろうけれど、
文哉がこれから変わっていく可能性を示してくれた。
それに、今度はお父さんも拘置所の側に生活の拠点を移して毎日面会を申し込んで
文哉と関わり続ける覚悟を決めたし、
洋貴もこれからも会いに来る気でいる。
被害者家族とは双葉が関係をつないでいてくれる。
人とのつながりをことごとく絶たれていた文哉に、
少しずつ人とのつながりができていく。
それはきっと何かを変える十分な原動力になる。
決して簡単な答えを用意しなかったけれど、
分かりやすい救いは描かれなかったけれど、
私達視聴者にそういう希望を垣間見せてくれる最終回でした。

ここ数作の坂元作品は、
登場人物に対する優しい視点があります。
ドラマの中で糾弾されるべき存在の人物(「Mother」の実母や「それでも・・・」の文哉)にさえ
その人物に寄り添うような視点を必ず入れる。
登場人物それぞれに寄り添うミクロの視点と、
物語を俯瞰して構成するマクロの視点。
この二つの視点がバランスよく共存しているのが、
最近の坂元さんのオリジナル作品です。
見返すと、数話前の会話が後の話の伏線になっていたり、
小道具が計画的に配置されていたり・・・と
連続ドラマの形式を活かした構成がきっちりとなされていることがよくわかります。
例えば最終回で洋貴が文哉の父にわたした時計。
これも前に語られたエピソードをきっちりと受けて、
大きな意味を持つことに気がつきます。
小さな小道具が、エピソードが、必ず必然的な意味を持って配置されていて、
それを拾い上げることでどんどん物語世界が深まっていく解釈ができる。
こういうのって優れたドラマにしかない特性で、
こういうドラマに出会ったとき、
何度も見返して仕掛けに気付くのが本当に楽しい。
そういう良質なドラマの特性を十二分に味あわせてくれたドラマでした。
役者陣もほんとうに素晴らしかったし、
演出もよかった。
季節の風景を多用した映像は、
ふと「北の国から」を思いしました。
「北の国から」に匹敵するドラマがようやく現れた・・・と言っても過言ではないと思います。
また、何より音楽も素晴らしかった。
辻井氏のピアノは作品の世界観にみごとにはまっていました。
多弁でありながら、肝心な言葉はなかなか語らない主人公たちの
心の揺れをピアノの音が見事に紡いでいました。
そして、主題歌。
休符の多い、美しいメロディをわざとぶつ切れにしたような小田さんの歌声は、
少し歩んでは立ち止まり、また進んで、立ち止まる・・・
この物語の登場人物たちみんなにぴったりと当てはまる名曲でした。


自分の生き方で 自分を生きて
多くの間違いを 繰り返してきた

がんばっても がんばっても うまくいかない
でも 気づかない ところで 誰かが きっと 見てる

あの頃みたいに 君に 優しく できているかな 今も
いちばん大切なのは その笑顔 あの頃と 同じ 

あの頃と同じ

気がついたら口ずさんでいます。
できるならビデオを流しながら、
このシーンはきっとこういう意味なんだね
とか
文哉はこう考えているんだよ、きっと、
なんて感じで、誰かとこのドラマについて心ゆくまで語り合いたい
そう思わせてくれるドラマでした。

三﨑文哉(それでも、生きていく)

なんと言ったらいいのだろうと思う。
見るたびに息を詰めて画面に見入り、
登場人物それぞれの心に共感し、
ともに怒り、ともになごみ、ともに悲しむ・・・。
1時間見終わるとあまりに密度が濃い1時間を過ごした余韻で
放心してしばらくは動けないほど。
出てくる役者さんがとにかく凄い。
みんながみんな、とにかく素晴らしい仕事をしているんだけど、
特に凄かったのは大竹しのぶさん。
素晴らしい役者さんだって言うのは知っているけど、
どちらかというと彼女は舞台でその本領を発揮される役者さんだって思っていたんです。
その大竹さんのテレビでの本っ気の演技。
5話でのものすごく長い長台詞を一人でしゃべるシーンも見応えがあったけれど、
何よりも圧巻だったのが8話での文哉との対決のシーン。
見たことはないけれど大竹さんの舞台での演技ってこういう感じなのかな
と感じさせてくれるような激しい感情表現。
他のドラマなら浮いてしまったり、見ている側が引いてしまうような大きな演技。
響子(大竹しのぶ演じる主人公の母)の感情をむき出しにして
娘を殺した犯人三﨑文哉につかみかかっていく。
見ていて鳥肌がたちました。
娘を殺されてしまった母親の思いが、痛みが、どれほど大きいか・・・。
響子は文哉につかみかかり、その手を自分のお腹にあてながら、
「あの子はここに居たの」
と必死に訴えます。
生まれたときの体重を1グラム単位で正確に言えるところに、
母親の我が子に対する思いが込められていて・・・。
大きくなるねえと言いながら育てたこと、
いつかお母さんの背より大きくなるねえと言っていたこと、
そう言って笑っていた矢先に殺されてしまったこと・・・
響子の口からは驚くほど具体的で細かな記憶があふれ出てきて、
テレビ画面のこちら側から見ていても心が痛くなるほど。
けれども、その言葉も文哉には何も響かない。
恐ろしい勢いで大竹さんの身体全体からほとばしっている思いが
文哉には全くとどかない。
そこに底知れぬ恐ろしさを感じました。。
この手の殺人を物語の主題に置くドラマって、
犯人をどう造形するか・・・っていうのが1つの大きな課題。
「羊たちの沈黙」のレクター博士のように、超越した異常者として描くか、
普通の人間がその生育環境によって歪められたと描くか。
この部分が納得いかないと作品そのものが成立しない。
最近の(といってもちょっと前になりますが)作品では
「海容」というドラマで少年が少年を殺害する、という難しいテーマに取り組んで、
大部分では丁寧にドラマが作られていてよかったんだけど、
犯人の少年の人物造形を、
ちょっと感受性が強い普通の子で被害者の少年に母親の悪口を言われたから殺した・・・
というところにもってきたのが小さな不満でした。
この部分になんとなく煮え切らないモノを感じてしまうと
物語そのものに執着できなくなってしまうんですよね。
気持ちはわかるのだけど、
犯行時に分かりやすい原因を用意して、
ほぼそのことだけが犯行の動機だったとしたところがやっぱり弱い。
母親と関係がうまくいっていない親子なんて五万と居ます。
母親の悪口を言われることだって日常に転がっています。
けれども、それが殺人の原因になったとき、
正常から異常に飛躍するなにか大きな要因があったはずで、
それはきっとこうだからこうなったというような形では
うまく説明できないような深く複雑なものなんだと思うのです。
その深い闇に目をむけず、分かりやすい動機を用意して
物語を語ってしまったところが物語の力をそいでしまったように感じました。
一方この「それでも、生きてゆく」ではあと1話を残して犯人文哉の人物像を明確にしていません。
ドラマとしては7話以降で文哉自身について語られるシーンが多くなり、
また再犯を犯すという流れもあって文哉自身が登場するシーンも増えます。
時には他人の口から、
時には文哉自身の言葉で、
犯行時何があったのか、
文哉が何をどう思っているのか、
雄弁に語られていくのに、
未だに文哉がよく分からない。
それはきっと文哉自身にも分からない心の闇。
簡単に人物像を規定してしまえない複雑さを持った殺人鬼として三﨑文哉を描くことで、
この作品はますます深みを増したのだと思います。
そしてその複雑な文哉という怪物を
風間俊介という役者がみごとに演じています。
大竹さん演じる響子との格闘シーンの話に戻ると、
圧倒的な大竹さんの演技を、きちんと「受け」ているんですよね、風間君が。
放送時は大竹さんの演技に圧倒されて見逃してたんですが、
録画でもう一度、今度は文哉にだけ注目して見ていると、
文哉が響子の言葉を聞き流しているのがよく分かる。
うちの子を怒る時もよく感じるのですが、
こっちが感情にまかせてすごい勢いでしかっている時って、
言葉が全く届かない。
心を閉じて、身を縮めて、
ただ、この辛い瞬間が早く通り過ぎてくれるのを待っている。
まるで亀が甲羅のなかに引きこもってしまったように。
そんな中学生の男の子がお母さんに怒られて必死で耐えているような表情。
その表情を見たとき、
ああ、この子はまだ、事件を起こしてしまった中学生のままなんだ、
ということが痛いほどよくわかりました。
それまでドラマの前半では、少年院を出た後まじめに働いていて、
それなりに辛いことも無表情でぐっと耐えて・・・
(でもその無表情さが怖かった・・・)
という青年だったので、
事件以後、ニートのように家に引きこもっていた洋貴よりも
ちょっと大人びて見えていたんですよね。
でも、それは見せかけだけで、
中身はあの頃のまま止まっていたんだ、この子は!
という衝撃。
響子に
「湖に浮かんだ亜季ちゃんはきれいでした」
と平気で告げられる無神経さ。
そして、その言葉が響子の慰めになると思っている感覚のズレ。
殺人に対する禁忌の意識は恐ろしく低いけれど、
そして、殺人と言う行為に対して強い誘惑を感じているけれど、
殺人はいけないことだという意識も持っている。
自分が殺人を犯したから家族の運命まで狂わせてしまったということは理解しているけれど、
家族に対して
「この家狭いね、お父さん、ちゃんと働いているの?」
としらっと言ってしまうように、
どこか頭の中で回線がつながっていない。
5歳の時に目の前で母親が自殺をしたせいで
死に対する恐怖心も薄いようで、
死ぬよりも生きている方がずっと辛いと思っている。
実際に10話では自殺未遂も起こす。
その割に、洋貴に追いかけられて逃げる時などは、猛烈に走って逃げる。
まるでハンターから逃れる野生の動物が、
身体中でその中にある命を守っているかのように・・・。
このシーン、瑛太の執念のこもった走りも凄かったけれど、
風間君の走りがとにかく圧巻だった。
とにかくそういう、様々なシーン場面で矛盾だらけで、
いろんな人間の顔が幾重にも層状に重なっているような三﨑文哉という人物を
その1つの生身の身体に納めて、
このドラマの中できっちりと三﨑文哉として「存在」していることがすごい。
風間俊介という役者さんは、私は「金八先生」で知りました。
その時も表面は優等生なんだけど、
家庭に複雑な事情を抱えていて屈折した少年、
という難しい役を見事に演じていて、
当時、この子すごいなあ、いい役者さんになるやろなあ・・・と思った覚えがあります。
事務所が違っていたら、もっと若手俳優として大きな作品に出て居たんじゃないかという気がして
残念です。
本人がアイドルに固執しているのならそれはそれでしかたないことなんだけど。
三﨑文哉が再犯を犯して、物語の中心になり始めてから、
とにかく気になって仕方がない。
ドラマを見ている最中は、やっぱり瑛太演じる洋貴やその母の響子や、
満島ひかりちゃん演じる双葉の視線で物語を見るから、
文哉の行動に、言葉に、腹が立つ。
文哉が引き起こしてしまった事の大きさに怒りを覚えるのだけれど、
ドラマを見終わった後、ずっと心に残っているのは文哉の姿なのです。
誰の言葉も彼の心に響かないと言うことは、
裏返せば誰も彼を救えないということなのです。
自分の性癖、指向性が、社会の規範を大きく逸脱している時、
逸脱していても平気だったり、
逸脱していることすら気付かなかったりする本当のモンスターなら、
苦しむこともなかったかもしれませんが、
彼は自分が逸脱していることを自覚している。
自分が反社会的な人間だと思いながら生きるつらさ。
たった一人で闇の中を生きて行かねばならない孤独。
唯一の味方であるはずの双葉は洋貴に取られてしまった(と思っていると思う)。
彼の孤独を思うとき、シンと胸が寒くなる。
だれか彼を助けてあげて、とも思う。
その一方で彼が引き起こした事で、どれだけ周りの人間が苦しい思いをしているかということを考えるとき、
やっぱり彼は正統に罰せられるべきなのだ、とも思う。

残すところ、あと1回です。
低視聴率でありながら、打ち切りにならなかったことが本当に嬉しい。
途中、もしかして文哉は最終回で死ぬのか? と思いましたが、
(8話で大竹しのぶに椅子で頭を殴らてたので、脳内出血で死ぬかも・・・って思っていました)
公式HPを見たら「文哉自身も改めて人としての一歩を踏み出すイメージ」とあるので、
きっとちゃんと「生きて」行くのでしょう。
10話で洋貴の言葉を聞いているときに、
洋貴が一生懸命話している言葉を受け流すかのように
「飯まだかなあ・・・」
と言っていましたが、気のせいかその目は涙で潤んでいるように見えました。
洋貴の言葉が、彼をほんの少しでもいい、変えてくれていたなら嬉しいのにな。
後1回でもうあの濃密な1時間を過ごすことはできないのだと思うと寂しいのですが、
洋貴が、双葉が、被害者・加害者双方の家族が少しでも明るい方へ歩み出せたら、
そして、文哉にほんのわずかでもいい救いがあればいいなと思います。

コクリコ坂から

夏休みも終わり頃になってようやく行ってきました[E:coldsweats01]
このブログではいつもそうですが、
たぶんネタバレを含みます。
この映画の何処までが厳密にネタバレになるのかよく分かんないところがあって、
私的に見る前に明かされたらやだなって言う一点に言及することはありませんが、
その前段階は書いちゃうかもしれませんので、
まだ見ていない人はお気をつけ下さい。



見る前にはいろいろ思って心配していたのですが、
いざ見てみるとそんないろいろな思いは吹き飛んで、
単純にいい映画になっていたのでよかったです。
宮崎吾郎監督の注目の2作目だとか、
ジブリの作品だとか、
お父さんの駿監督がどうだとか、
そんなことは全てとっぱらって、
いい作品でした。
大きなテーマがあるわけではなく、
また、異母兄弟もの・・・という、かなり使い古された陳腐な設定が核心にあるにもかかわらず、
さわやかな余韻がいつまでも心に残ります。
見ている途中も観客に飽きさせない作りがされていて、
特にカルチェラタンの住人を描写するくだりは楽しかった。
日常生活の何気ない動作を丁寧に描いているところは、
スタジオジブリという制作集団がずっと守り続けている部分で、
日常描写の積み重ねがドラマを作り上げていく・・・という形はこの作品にも活きています。
ガス炊飯器に火をつけるためにマッチを擦る所作、
リズムよくキャベツを刻む手元、
実写映画だったら気にもとめない小さな描写が
アニメーションとして描かれることで観客に意識化される。
もちろん去年のアリエッティでもきっちりと描かれていたんだけど、
こういう、ファンタジー色を全く排除した「コクリコ」のような作品だと特に際だちますね。
ジブリの作品群の中では
「海が聞こえる」「耳をすませば」のような
ファンタジー色を廃した青春ものの流れの中に位置づけられるのでしょうか。
私はこの系譜の中では「コクリコ坂」は一番作品として完成していると思えました。
ジブリがあまり得意とは思えないのに、
何度も何度も挑戦しているジャンルで吾郎監督が成果を出したのはよかったと思います。
正直言って私はなぜジブリがこの系統の作品を繰り返し制作しようとしているのか分からない部分があって・・・。
しかも、なぜかこの種の作品は若手監督に任せるという場合が多い・・・。
すると、作品としてのテーマ性の弱い、結局何がやりたかったの? というものになるか、
現実を舞台としながらも現実離れした少年少女が描かれる、どこかちぐはぐな作品になってしまう。
どうも宮崎駿さんがこの系統好きみたいですよね。
少女漫画なんかから題材を探し出してきて、企画を出しているのは駿さんみたいだし。
でも、駿監督が一番ニガテとするのもこのジャンルなんじゃないか思います。
で、自分はできないから若手にやらせてみる。
→若手にやらせているとついつい気になって口を出す。
→若手が潰れる。or作品がぐちゃぐちゃになる。or原作とは全然違う宮崎駿監督作品ができあがる。
っていうのがいままでのジブリの流れだったんじゃないかと・・・。
この「コクリコ坂も正直言って制作が発表されたときは
なぜ、今、ジブリでこの作品をやるのかっていうのが全く見えませんでした。
しかも原作をあえて1963年設定に変更するという・・・。
見終わった今も今なぜこの作品を? という疑問は消えていない。
映画を見終わった後「CUT」を買って鈴木さんのインタビューを読んだら、
シナリオをようやく書き終わった後宮崎監督が、
「この映画ってテーマはなんだ?」
って鈴木さんに言ったらしいんですよね[E:coldsweats02]
おい! って言いたくなりましたが・・・[E:coldsweats01]
書いてるあんたに分からないもんが、他の者にわかるわけないやろ!
結局、作っている課程で鈴木プロデューサーと吾郎監督の大きな命題になったみたいですよね。
「この映画のテーマは何だ?」っていうのが。
でも。実写映画でもきっとこういうことってよくあると思うし、
実写映画のように俳優の所属事務所の意向とか、
スポンサーの意向とか、バックアップしてるテレビ局の意向とか、
映画のクオリティーとは全く別の次元で横やりがない分、
制作現場としてはよっぽど恵まれているし、純粋にものを作る場として機能していたんじゃないかと思います。
ちなみに「コクリコ坂」の予告で映画「怪物くん」が流れてびっくり・・・。
監督が中村義洋監督なんですね。
中村監督と言えば、「アヒルと鴨のコインロッカー」や「チームバチスタの栄光」
「チームバチスタ」の時も何となくインタビューで雇われ監督の悲哀っぽいものを感じさせてくれていましたが、
今度は「怪物くん」ですか・・・。
まあ、そういう意味では作り手の意思や主張がハッキリしていなければ映画として失格だ、
というワケではないので、これはこれでいいのかなあと思います。
1本の映画としての完成度は高かったと思うので。
自分のやりたいことや企画でできた作品ではないけれど、雇われ監督的な働きはきっちりこなしたかな。
ジブリは5年計画っていうのがあるそうです。
3年ほど前に宮崎監督が突然言い出したそうで・・・。
最初の3年で若い人が2本作る、最後の2年で大作を1本作る。
その最初の2本が「アリエッティ」と「コクリコ坂」。
始めから意図して企画したわけではないでしょうが、
ファンタジーと青春物語で見事な一対になっています。
その一方でどちらの作品も作家性がそれほど強くなく、いい意味でジブリのカラーを色濃く持っている。
はじめからこの2作品でいく、と決めたわけでもないそうですし、
どちらかというと宮崎駿監督の思いつきで始まった5カ年計画を鈴木さんが必死で形にしたっていう側面が強そうですから、
そういう経緯で成立したにしてはきちんと最初からはかったように対になる作品ができたっていうことが面白い。
鈴木さんがジブリの舵取りをしているっていうことは紛れもない事実なんだろうけど、
いまや日本を代表するアニメ制作会社であり、
映画制作のみならず美術館の運営やキャラクター商品のライセンス、自社作品の著作権管理など
大きなビジネス母体となっているのもかかわらず、
いつまでも利益を追求する事を第一義とする企業体にはならず、
映画を制作することを一番においている制作集団であり続けているところがすごく面白いと思います。
まるで1つの生命体のように成長したり紆余曲折の上失敗してみたり・・・。
ま、失敗しても1つ1つの作品としてはきっちりペイできるところまで持って行くところが鈴木さんのすごいところなんだけど。
でもなにより鈴木さんのすごいところは、
ジブリの紆余曲折や抱えている問題点をメディアを使って上手に表に出してくること。
ジブリの後継者問題にしても、宮崎親子の確執にしても、高畑監督と宮崎監督のライバル関係にしても、
映画の宣伝と絡めながら1つの「ジブリ物語」になるように情報を露出させる。
けれでも、うまく物語にならないネタはうまく隠す。
たとえば何回かあった監督の交代劇なんかをドキュメンタリーでやったことはないですよね。
そういうドラマチックでないことはネタにしない。
鈴木さんの手のひらに上手く載せられて居るなあ・・・と感じつつ、
それでも私はこういう制作集団ジブリがどうなっていくかという「ジブリ物語」が大好きなんです。
だから今回「アリエッティ」に続いて「コクリコ坂」がいい作品に仕上がって嬉しいし、
次に駿監督がどういう大作を作ってくるのかとても楽しみなのです。


で、視点を吾郎監督に移すと・・・
見る前からとにかく気になっていたこと。
父宮崎駿の企画で、脚本で、しかも昭和38年の物語で、
果たして吾郎さんの個性は活かされるのかということ。
以前のブログで書いたように、
吾郎さんの一番の魅力は駿監督では決して描けない
現代の閉塞的な時代に生きる若者を描けることだと思うのです。
しかもその閉塞性に自らが埋没し誇示することでことさらに現代性を強調するのではなく、
一定の距離感を保ちながらうまく描いている。
けれども「コクリコ坂」に登場する高校生達は純粋でまっすぐに前を見ているような
いかにも駿さんが好みそうな若者達。
しかも駿監督が脚本を書いているのだから、
きっと原作以上に主人公達の前向きさが強調されているんだろうなあ・・・っていうのは容易に想像できたので、
それって吾郎監督の得意な部分を封印してしまうことじゃないのか・・・?
そんな不安がありました。
お父さんの得意なフィールドで、お父さんが設定したテーマで、
果たして吾郎監督がどう映画を作るのか・・・。
そこにきちんと吾郎監督の息吹を感じることができるのか・・・。
できなかったとしたら、
この作品で駿監督の亜流のようなモノしかできていなかったら
吾郎監督の監督生命はないんじゃないかって、ちょっとびびっていました。
NKHのドキュメンタリーを見てからは、
駿さんや鈴木さんがこの作品で吾郎監督に期待したものっていうのが見えて、
しかも吾郎監督もその部分に必死で答えようとしているのがわかって、
作品の意義云々っていう部分のこだわりは薄くなりましたが、
それでもやっぱりどこか心配で・・・。
でも、実際に作品を見てみて納得しました。
きちんと吾郎監督の作品になっていると思えたので。
宮崎駿さんが描いたという宣伝用のポスターと、
映画の中の海ちゃんはやっぱり違う。
ポスターそのものの場面がなかったという意味じゃなくて、
映画の中の海ちゃんはポスターのような希望に満ちあふれた表情はしていない。
ドキュメンタリーの中で駿さんが吾郎監督にヒントを与えたという海ちゃんの登校風景。
アングルも描き方もきちんとあの絵の通りになっていたけれど、
駿さんの描いた絵は大股で前屈みになるくらいの勢いで登校していた海ちゃんが、
映画ではそこまで元気いっぱいではなくかすかに身体を前に傾けて急ぎ足・・・くらい。
いい感じに抑制されていたと思いました。
もともと吾郎監督が絵コンテで描いた暗い海ちゃんの影をひきずったともいえるんでしょうが、
私はこれが吾郎監督の海ちゃんなんだと思います。
そしてその結果地に足のついたいい青春映画になったと思えるのです。
私は「耳をすませば」が好きではないのですが、
どこが嫌って、現代の現実に生きる中学生を描いているはずの物語で、
あまりにもまっすぐでストレートな表現を使っているところ。
これが非現実な世界を舞台にしているとそんなに気にならないんです。
未来少年のコナンがラナにまっすぐに「好き」といっても違和感はない。
でも中坊が好きな女の子に「結婚しよう」って言ったら、ちょっとひきます。
とにもかくにも主人公二人がとにかくまっすぐすぎて、
見ているとなんだかむずむずこっぱずかしくなってくる。
「耳をすませば」は駿さんの監督作品ではありませんが、
その制作途中でかなり駿さんが口を挟まれたと聞きます。
脚本だけじゃなくて絵コンテも描いてますし。
だからきっと雫ちゃんの人物造形も物語の展開も駿監督の意向が大きく関与していると思います。
駿さんにはどこかアニメ作品のヒーローはこうでなければならない、
ヒロインはこうでなければならない・・・という型がきっちりあるのではなかと思います。
でもその型は現代劇をする際にはあまりうまく当てはまらないんですよね。
物語がダイナミックに展開しない分、
人物像が物語から浮いてしまうんです。
元気に喜怒哀楽をストレートに出す分、物語の平板さが際だってしまう。
「コクリコ坂」では吾郎監督がいい感じに抑制して描いたから、
上手く高校生の恋愛物語としてまとまったんだと思います。
海ちゃんも劇中で俊くんに大声で「好きです」と叫ぶけれど、
あれは相手が異母兄弟だって分かって恋愛対象として考えてはいけないと思っている時なので、
相手の反応を期待していない言葉だから違和感はなかったです。
というか、可能性がないからこそハッキリと「好き」と言葉にできたのであって、
そうでなければきっと口にできなかったはず・・・。
主人公二人の心の動きを小さな動作や表情の変化の積み重ねて、物語を紡いでいけていた。
「ゲド戦記」が言いたいことをストーリーに詰め込んで、
ストーリーを見せるために登場人物が泣いたり笑ったりしていたのと比べると、
本当に驚くほどの成長だと思いました。
昭和38年を舞台としながら、
あの時代はよかった的な空気があまりなかったのもよかった。
監督自身が昭和38年を知らないせいもあるのかもしれないけれど、
江戸時代や明治時代を描くのと同じように、
昭和38年という時代を舞台に物語を描いただけ。
変にノスタルジックではないところも吾郎監督のいいところではなかったかなと思います。
また、「ゲド戦記」(特に前半)で感じた登場人物に対する暖かい視線。
「コクリコ坂」でもしっかり感じられました。
こういうのって作り手の人間性が透けて見えるから、
吾郎監督はきちんと人と対峙することができて相手を受け入れることのできる人なんじゃないかと思います。
また、理詰めで登場人物の心情を探っていく辺りは(NHKのドキュメンタリーより)
お父さん宮崎駿の感覚的な作品の作り方よりも、
理詰めで精緻に物語を組み立てていく高畑さんのほうに近い作り方をするのかなあとも思いました。
ただ気になったところも・・・。
所々で、お父さん、宮崎駿監督独特の表現が使われている部分があって、
「ゲド戦記」で父親の作品をつぎはぎにして作った作品だと酷評されたことを思い出してひゃっとしました。
吾郎監督がお父さんの作品を見て育ったのは重々承知の上で、
今はとにかく宮崎駿的な表現はできるだけ廃して自分自身の表現方法をさぐっていく必要があるのではないかと思いました。
これは去年「アリエッティ」を見たときもやっぱりあったのだけど、それはしょうがないと思えたんですよね。
ジブリのアニメーション作法として継承している部分もあるだろうし・・・。
でも、吾郎さんはやっぱり息子だから、
他の人よりもその辺のハードルを高くしないといけないんじゃないかという気がします。
「ゲド戦記」と比べて「コクリコ坂」はそういうお父さんの作品を想起させる部分はだいぶん減っているんですけどね。

さて、次は是非吾郎さんの企画で、吾郎さんの作品を見てみたい。
次の作品はもっとお父さんとの個性の違いが如実に表れていくるんじゃないかと思います。
その前に宮崎駿監督の大作があるわけですが・・・。
その作品を見てインスパイアされたものでもいい、
今大きく曲がり角を迎えようとしているこの国で感じたことでもいい、
ご自身のお子さんと過ごされて感じたことでもいい、
楽しみに待っています。





で、おまけなんですけど、
作品を見ていて生徒会長の声がいい声だなあ・・・と思っていたんです。
劇中歌を歌うところもあるんですけど、歌もそこそこ上手かったし、
本職の声優さんかな? とも思ったんですよね。
俳優さんが声をあてるとどうしても声が沈んじゃうんだけど、
いい感じで前に出ていたし。
でも本職の声優さんのような型にはまったいいかたじゃなかったし、
誰だろう・・・って思っていたら、
なんとびっくり風間俊介くん!
今、毎週息を飲むようにして見ている「それでも、生きていく」で三崎文也(犯人)をやっている俳優さん。
暗い役をしている作品しかみていなかったので、
こんなにいい声をしていることに今まで気がつきませんでした。
大森南朋さんや香川照之さんがでていらっしゃることも気付いていなくてあとで調べてビックリしたのですが、
なにより風間君が一番びっくりしました。