「カフーを待ちわびて」再見4

続きです[E:coldsweats01]

「手をつなぐ」

作品中で明青と幸が触れあうシーンは5回。

少ないですね。

しかも、せいぜい手をつなぐくらい。

ベッドシーンはおろか、キスシーンもない。

今時珍しいラブストーリーです[E:sweat01]

(ただし原作にはキスシーンがあります)

現代の日本が舞台で、この物語が成立しているところがすごいです。[E:coldsweats02]

私的には、むやみに好きだ愛してると言い合って、

すぐにやれ浮気だ、心変わりだ・・・と騒ぐラブストーリーは大嫌いなので、

こういう奥ゆかしいラブストーリーが好きです。[E:happy01]


さて、二人が触れあうシーンをじゅんに追って見ていくと、

二人の関係性がなんとなく見えてきたりします。


初めての接触は幸が木登りして、飛び降りたとき。

「受け止めて」

と、飛び降りた幸を明青は受け止めきれずに二人は倒れ込んでしまいます。

ここは原作通りのシーン。

あえて言えば、拓海の靴を探そうと言い張るのが幸→明青に変更されているくらい。

ここでも、原作よりもほんの少し積極的な明青がほの見えます。

(とにかく原作の明青は何事につけても受け身なのです)

面白いなあって思うのは、このシーンの幸が一番無邪気に積極的なこと。

原作では比較的最後まで明るくて無邪気で積極的なんですけど、

映画では途中で幸が少ーし変わってくるんですよね。

中盤以降の幸だったらこんな風に明青の胸に飛び込めないだろうなあ・・・

なんて考えてたらなかなか興味深いシーンです。




2回目は傘のシーン。

お互いに物思いに沈んでいた後のシーン(再見3参照)です。

幸は明青の片方の肩が濡れていることに気がついて傘を明青の方に寄せようとして、

思わず明青の手に触れてしまいます。

触ろうとして触ったのではない偶然の出来事なんだけど、

明青は思わず持っていた傘を落としてしまいます。

手が触れただけで傘を落としてしまうなんて、

明青ってなんてうぶ[E:heart04]

っていうシーンなんですが、きっとこのシーンが意味しているのはそれだけじゃない。

ラブコメでよくありがちなシチュエーションだけど、

その場合たいてい落とした後にフォローがあるんですよね。

「あ、ごめんなさい」って傘を拾うとか。

そういう、気まずい雰囲気をとりつくろうなんらかの動きがあってもよさそうなものなのに、

ここでは二人、その場に立ち尽くしてしまうんです。

きっと、幸はお母さんのことを考えていたのでどこか明青に引け目を感じていただろうし、

明青は明青でおばあに「幸を幸せにしろ」なんて言われたものだから必要以上に敏感になっていたんでしょう。

そういう二人の微妙な思いが交錯するシーン。

このシーンは映画オリジナルのシーンです。

音のない映像にアフレコで明青と幸の会話をかぶせた雰囲気が、

一つの傘の中でとつとつと会話をする二人の息づかいが伝わってくるようで

すごく好きなシーンの一つです。






3回目はお盆の準備のシーン。

このシーンも映画オリジナルのシーンです。

明青の心臓の鼓動が伝わってきそうな場面です。

明青にしてみれば、突然幸が

「忘れられない人がいる」

って言い出してびっくりしているところに、

追い打ちをかけるように不倫をしていることを告げられて、

驚きすぎて(幸には不倫という言葉が似合わないし)返事もできないくらいなのに、

そのまま告白めいたことを言われてもうどうしていいのかわかんない状態。


一方、幸から見てもここは緊張する場面。

明青に自分の過去のことを打ち明けるのですから。

母親が不倫の果てに島から去って行った過去を持つ明青に、

母親と同じ罪を自分が背負っていることを打ち明けなければならない。

傘を持つ手に触れただけで、傘を落としてしまうような純粋な明青に。

同じ屋根の下で暮らしながらも自分に指一本触れようとしない優しい明青に。

明青はこんな自分を受け入れてくれるだろうか・・・。

しかも、自分にはもう一つ、明青に告白しなければならないことがある・・・。

自分は明青のお母さんの不倫相手の娘だと言うことを・・・。

うがった見方をすれば、自分の過去を話して明青の様子をうかがったのかなあ・・・って。

これはちょっとうがちすぎですね[E:coldsweats01]

でも、とりあえず、明青は「不倫」という言葉にあからさまな嫌悪感を示すと言うことはありませんでした。

「軽蔑する?」

と聞いた幸の言葉に、首を横に振ってくれたから。

でも横から見ていても、きっと、明青の動揺は伝わってきて・・・。

幸は明青の左手をとって、そっとそこにはめられた手袋を外します。

思いがけない幸の行動に、

驚いて身を固くした明青は、

けれどもそっと左手を幸にあずけたまま、されるがままに、

自分の左手を見つめています。

やがてその目は自分の手から逸らされ・・・。

ここは、見ているだけで、胸がキュンとなるシーン。

手と手が触れあうということがこれほど特別な意味を持つんだ・・・と久々に思い出しました。

昔、フォークダンスで好きな男の子と手を繋いだときの、

すーっと地球の重力が軽くなる感じ。

ただ、明青の左手にはそれ以上に大きな意味があります。

映画の中ではそれほど説明がありませんが、

やはり左手は明青のコンプレックスであることがうかがわれます。

過去の回想シーンを見ていると、いじめられた一因はやっぱり「手」だったみたいだし。

未だに手袋をはめているし。


この手袋、はめている時とはめていない時があって、

手袋をはめると言う行為に何か法則性があるのか・・・と思って一生懸命見ていましたが、

どうもこれといって大きな意味はないようですね。

幸の前では意図的にはめているのか・・・とも思ったけれどはずしている時もあるし。

外に出るときは例えカフーの散歩でも比較的きちんとはめていますけど、

慌ててたり、家からふらりと出る時にははめてなかったり・・・。

結構その場その場に応じて臨機応変になっているみたいです。

でも、外に出るときには比較的着用率が高いので、

やっぱり多少傷のことを気にしているのかなあという感じはします。



この手袋って、きっとお母さんの手作りなんですね。

明らかに手編みだし、子供の頃の明青が港で母を待つシーンではめているし。

今ではすでにちっちゃくなっちゃって半分くらいしか手が隠れないのに、

それでも忘れずにはめていることを考えると、

明青にとってこの手袋は母の思い出そのものなんですね。

その手袋で隠された明青の傷。

明青は手の傷のせいで母が家を出て行ったと心のどこかで思っている。

確かに他に好きな人ができたから家を出て行ったというのが直接のきっかけだろうけど、

この傷のせいでおばあとの仲がうまくいかなくなり、

家に居づらくなっていたのは気付いていただろうから。

その手の傷を母が編んでくれた手袋で隠し、

母に捨てられた心の傷をも母親の思い出で隠して、

誰をも憎まず、今まで生きてきたのです。



幸は、その手袋に幾重にも巻き付けられたヒモをゆっくりとほどいて、手袋を外します。

そして明青がずっと隠しながら生きてきた傷をそっと手で包み込みます。

まるでこれからは明青の傷を一緒に引き受けるとでも言いたげに。

このシーンを見た時には、下手なキスシーンを見た時以上にドキドキしました。

このお話にふさわしいラブシーンだなあって。



「夏が終わってもずっとここにいてもいい?」

幸は明青に尋ねます。

最初に「お嫁さんにしてくださいますか」と書いた手紙以来の踏み込んだ意思表示。

もしここで明青がはっきりと

「いいよ。もちろんさあ」

と言ってくれたら、幸はきっと花のような笑顔を見せて笑ったでしょう。

そして、うまく話が転がれば母の形見のペンダントのことも打ち明ける用意があったかもしれません。

でも、明青は答えられない。

首を縦に振ってもくれない・・・。

(実は微かに頷いてるんだけど)

幸の決意を込めた告白は宙に浮いてしまいました。

その場にいたたまれなくなった幸は

「先におふろはいるね」

と、明青の側を離れます。



でもね、幸、

明青が手を振り払わなかった段階で、もう明青はOKって言ってるんだよ。

傷のある左手を幸に素直に預けている段階で、明青は無条件に幸を受け入れてる。

明青がはっきりとうなずかなかったのは、

ひとえに幸の行動と言葉にビックリしていたせい。

明青は幸を失うのが怖かった。

怖くて怖くて仕方ないから、

幸は夏が終わったら出て行く人なんだと思い込もうとしていた。

そう信じておけば、突然幸が消えてしまっても傷つかなくて済むから。

そんな時に幸本人から

「明青さんに会えたから(不倫相手を忘れられた)」

「ずっとここにいてもいい?」

と告白めいたことを言われて、パニックになっていただけなんだよ。

幸にそんなこと言われるなんて思ってもみなかったから、

驚きすぎて何も言うことができなかっただけ。

だから翌日テーブルの上に手紙を残した。

改めて幸に自分からプロポーズするために。



幸はあの置き手紙を見つけたときどう思ったんだろう。

起きてきた幸はそっと明青の部屋をのぞきます。

でも部屋はもぬけのから。

明青はきっといろんなことを相談しにおばあのところに行っているから。

不安がつのる幸はテーブルの上の手紙を見つけます。

包装紙を切って作られた便せんに明青の文字が並んでいる。

話があるのでお昼に海岸に来て欲しいって。



この手紙、とっても明青らしくて笑ってしまった。

明青にとって大切な手紙なのに、包装紙を切り抜いてるっていうのがなんともはや・・・[E:coldsweats01]

でも一生懸命気は使ったみたいで、かわいい水玉模様。

なんか不器用な明青の性格が透けて見えるような手紙。

玉山君の決して上手くない字もいい味を出していて

(あの文字、玉山君の文字って思うとちょっと・・・って気がするけど、

明青の文字にはぴったりなんですよね。

なんとなく明青ってああいう字を書きそうな気がする)

これを用意した小道具さん、グッジョブ![E:good]





観客は、これはきっと明青が幸に自分からプロポーズしようとしているんだなあってわかるけど、

幸はそうは思わなかったんじゃないかな。

手紙を読む幸にも、海岸で待つ幸にも浮かれた様子はないから。

でも、とりあえず幸はこの機会に母のペンダントを明青に返そう・・・ってことは決心したんでしょう。

海岸でいつまで経っても現れない明青を待っている間、幸は辛かっただろうな。

結局明青のプロポーズ大作戦はおばあが倒れたことでなし崩しになってしまうんだけど。






さて、話を元に戻して、

4回目に明青と幸が触れあう場面は迎え火のシーン。

ここのところの詳細は再見3で書いた通り。

幸は思わず、母を思って立ち尽くす明青の手を取ります。

幸の手をしっかりと受け止める明青。

そのまま幸を導くように明青は海に向かって歩き出します。

ここは物語の中で一番二人の気持ちが寄り添う場面。

おそらくこの後島の会議がなければ、

渡が幸のことを言い出さなければ、

茂子が明青に幸の素性(誤解の)を伝えなければ、

明青は幸にプロポーズをしていたことでしょう。

せっかく通じ合ったように思えた二人の関係は、

このシーンを頂点として急速に離れていきます。




そして最後が海での別れのシーン。

ここまでずっと幸からの働きかけだったのが、

ここで初めて明青からのアプローチになります。

海に入って行く幸を止めようとする明青。

思わずのばした手は傷のある左手でした。

でも、もう一方の手を伸ばせない明青。

本当は両手でその肩をつかんで抱きしめて、

幸を引き留めたかったに違いありません。

抱きしめて、そんなことないよ、君は一人じゃないよって言ってあげたかったに違いありません。

でも、この時の明青は自分はそうできる立場にないっていう思いで凝り固まっていました。

相手が万全の体制で心の扉を開いてくれてもなかなか飛びこめない明青です。

幸の心が自分にないとわかっていて(誤解だけど)

幸を引き留めるなんてできません。

思わず幸の肩にかけてしまった手さえどうすることもできない・・・。

幸は明青の左手にそっと手を乗せます。

肩に乗せられた手から

「そんなことないよ、君は一人じゃない」

という明青の思いを感じたのかもしれません。

「みんなの幸せが俺の幸せ」

と言う明青です。

彼特有の優しさから海に入って行く自分を引き留めてくれたって受け取ったのでしょう。

だからこそ、ここで

「幸せになるって約束する?」

と明青の選択(茂子と結婚する)を受け入れた。

明青が自分の幸せを願ってくれたように、

自分も明青の幸せを願おうって決心して。

二人、心は痛いほど寄り添ってお互いを思い合っているのに、

体は腕一本分の距離が縮められないんですよね。

明青が幸を抱き寄せることも、

幸が明青にすがりついて泣くことも、できない。

ただ重ねられた手だけでつながっている。

それがこの物語のもどかしさであり、最大の魅力なんですよね。

原作の持つ恋愛のもどかしさや切なさが、

映像としてすごくうまく映し出されているなあ・・・と、

今は、思います(映画を見た当初は誤解してたけど[E:coldsweats01]・・・再見その1参照)



というわけで、この映画、ラブストーリーなのに、

本当に手しかつながないんですよね。

(1回目の「受け止めて!」は事故みたいなもんだし)

でも、その手をつなぐシーンに二人の関係性が象徴的に表現されている。

映画オリジナルのシーン、オリジナルの解釈のシーンも多いし、

やっぱり映画ではかなり意図的に「手をつなぐ」シーンを作っていったんだろうなあと思いました。

「カフーを待ちわびて」再見3

母への思い

明青が母の死を知ってようやく家を売る決心をする・・・という部分は、

私が原作で最も驚き、そして胸が熱くなった箇所でした。

曖昧なまま反対を続けてきた明青の本心が表れる場面。

映画ではいろんな説明がカットされていて、

最初に見た時にすごく不満が残ったシーンの一つでした。

だいたい、原作で書かれている俊一と明青の母の因縁が全く説明されない。

だから「なんで俊一がそんなこと知ってるの?」ってことになってしまう。

ただでさえ偶然の連続のこの話で、

こんなとこまで偶然にしたらもう物語がファンタジーになっちゃう。

映画では

お前のおかあ、もう死んだよ

という俊一の言葉にショックを受けた明青の表情の後、

何の言葉も続かずに場面が変わってしまいます。

次のシーンで、明青を追いかけてきた幸に明青が

おかあ、5年前に死によった・・・

と言っているので、きっとその後俊一から詳しい話を聞いたんだろうなあ・・・ということは想像できます。

(でないと5年前なんて数字出てこないですもんね)

でも、観客にはなぜ俊一がそのことを知っているのかは説明されないまま。



原作では明青の母親が働いていたのが遠久島のリゾートホテルっていうことになっています。

そこに視察に行った俊一と偶然再会したのです。

だから俊一が明青の母の死を知っていたわけです。

でも果たしてこのエピソードを映画に持ち込んで考えていいものやら・・・。

このエピソードには続きがあって、

幸は母親の死後、母親の働いていたホテルで働き始めます。

だから原作では幸が遠久島神社に来た理由も説明がつくんです。

でも映画では幸と母親の関係は原作とは大きく変えられていています。

その変更点に深く関わっているこの母親の働き場所も、

映画では変えられていると考えたほうがよさそうです。

そこで無理矢理に理屈をつけて考えて、

俊一が上司に命じられて明青の母親の行方を捜していた

(明青がウンと言わないのは母親のせいだとふんでいたから)

と想像してみても、所詮想像の域をでません。

たぶんそんなことなんだろうなあ・・・と思うしかない。

脚本ではあの後(俊一の「お前のおかあは・・・」の後)台詞があったんじゃないかなあ

と思うのですが、どうなんでしょうね。

この部分を曖昧にしている上に、

明青は母親の死を知った後も家を売る決心をしません。

そしてそのまま物語は幸の素性へと焦点が移って行きます。

だから大好きだったこの部分が肩すかしを食ってしまった気分でした。

え~、明青くん、お母さんのことはいいのお? って。





でも、明青のお母さんへの思いはもう少し前に描いてあったんですね。

DVDのチャプターで言うと11番のその名も「母の宝物」。

ここも解釈が難しかった部分で、

1回目に見た時にはこの部分の意味が分からなかったんです。

結構次々と短い時間で、市場でふさぎ込んだ様子の幸と、

家でぼーっと物思いにふける明青と、

木登りの夜の渡と幸の会話(回想)と、

母親の記憶(回想)が入り交じって出てくるから。

物語の流れの中では木登りのシーンの翌日(だと思う)

おばあに指図されながら明青と幸がウンケー(お迎え)の用意をし、

その後幸はなぜか市場らしき所に買い物へ。

普段は買い物に行っている感じはしないので(自分ちに多少の食料も売ってる)

おばあに頼まれたウンケーの準備なのでしょうか。

そして明青はおばあに指輪をわたされ、

このやあ(家)を売りなさい。もう一つはあのお転婆娘

(って言っているんだと思う、字幕が出なくてヒヤリングもできない・・・[E:sad])

を幸せにしてあげなさい

と言いつけられるところ。

この後、幸も明青もそれぞれ物思いにふけるので物語が一旦立ち止まるんです。

そして間に挿入される過去の映像が結構大事な内容を含んでいるので、

ついそっちに気を取られていると、

ふたりがどうして考え込んでいるのかわからないまま次のシーンにいっちゃって・・・。

映画を見た直後の自分が書いた感想を今読み返してみたら、

幸が、自分がどこまで本気なのか、

自分の過去は明青に受け入れてもらえるのか、

自問自答しているんじゃないか・・・みたいなことを書いてますね。[E:coldsweats01]

明青に関してはこのシーンがあったこともすっかり忘れてるし・・・。[E:wobbly]

ここの部分は短くカットが繋がれて、時間が行ったり来たりしますが、

基本は悩んでいる明青と幸のカットバックなんですよね。

幸の回想が木登りの夜の渡との会話。

映画を見た段階では渡の「あんた誰ね」にひっかかってしまっていましたが、

渡の話のメインは明青のお母さんの話です。

明青の手のやけどの痕の理由。

明青の本当のおばあとお母さんの確執。

そして明青の母親が家庭のある男と駆け落ちしてしまったこと。

幸が5年前お母さんからどれくらい明青のことを聞いたのかはわかりません。

手のやけどのことくらいは聞いていたかもしれませんね。

初めて明青に会った時から自然に受け入れていたから。

でも、お母さんの話からは捨てられた明青の気持ちをリアルに想像することはできなかったでしょう。

渡の話は、捨てられた明青側から見た過去の話です。

渡が具体的に明青の寂しさを語ったわけではありませんが、

渡の話を聞きながら明青の寂しさに思い立ったのかもしれません。

そしてその寂しさは、自分たちがもたらしたものであったということも。

明青がこの島で一人母を待ち続けていた間、

自分がその母を独り占めしていたわけですから、

明青を長きにわたって苦しめ続けてきたのは自分だと改めて感じ、

持って帰って来た「母の宝物」が幸にとって急速に重いものになったんだと思います。

「母の宝物」を明青に返すと言うことは、

自分がその不倫相手の娘だと言うことを明かすことになる。

その自分を明青は受け入れてくれるだろうか・・・。

そんな不安と葛藤があの沈んだ表情の理由だったんだろうな・・・と、今は思います。


一方、明青の方はこのシーンの直前のおばあの言葉に反応しているんですね。

これも最初は指輪と「あの娘を幸せにしてあげなさい」の言葉だけにひっかかって、

思い切って告白するかどうかを悩んでいるのかなあ・・・って思っていたんですけど、

ここは違いますね、きっと。

どちらかというと、その前の

このやあ(家)を売りなさい

の方にひっかかっているんですね。

明青の回想は母がこの家にいた頃まで遡ります。

そしてその回想を引き出すきっかけが散髪道具。

母が家に居た頃の幸せな記憶。

庭先で散髪してもらいながら他愛もないことを話したこと。

家の角でペンダントをどこから持ってきたのか聞かれたこと。

そして、雨の中家から出て行く母の後ろ姿・・・。

多分、幸を幸せにしてあげなさい、とだけ言われたら、

あんな風には悩まない。

明青にとって家がお母さんとの幸せな思い出に満ちたものであるからこそ、

おばあに

このやあを売りなさい

って言われたことがショックだったんだろうと思います。

つまりこの時点で、自分がこだわっているものにある程度自覚的だったんだと言えると思えるんです。

原作では俊一に思いもかけないことを言われたショックですが、

映画では痛いところを突かれた衝撃があの表情だったんじゃないかなあ。

決して母への思いが希薄になっているわけじゃない。

いや、カットバックで幸と明青がそれぞれ母親の存在について考えていることからも、

幸と明青を結びつける要因としての母親の存在感はより大きなものになっていると言えるかもしれません。





思い悩んでいる二人のカットバックの結びが雨のシーン。

突然降り出した雨に、明青は傘を1本持って幸を迎えに行きます。

一つの傘に入って歩く二人。

幸はおそるおそる母親の話を切り出します。

お母さんの話、聞いたよ

「島の人なんかは、噂話が好きだからなあ。全部筒抜けさあ」

「寂しかった?」

「・・・うん、どうなんかな。子供だったからな」

「恨んだ?」

「いまさらなあ。まあ大人になったらいろいろそういうこともあるってわかるさあ・・・

どっかで幸せにやってるんだったらそれでいいんじゃないか」

自分を捨てたお母さんのことを「恨んでいない」という明青。

幸の胸の中には

「みんなの幸せが俺の幸せ」

とといった明青の言葉が思い出されていたかもしれません。

そしてお母さんが「どっかで幸せに暮らして」いないことを知っている幸は

この時、明青に全てを打ち明けようと決心したのかもしれません。

明青は明青で、ついさっきまで一人で母の思い出に浸っていたことを見透かされたようで、
びっくりしたでしょうね。

明青の方は幸と一つ傘の下で、おばあに言われたことを思いだしていたのかもしれません。

ある程度自分が母親の思い出に縛られていることを自覚している明青は、

幸に言った自分の言葉が100%本心じゃないことに気付いている。

幸に言った通りの心境ならば、いつまでも母を待たずに、

さっさと家を売って幸と結婚すればいい・・・でもそれができない自分がいる・・・

そんなことを考えていたんじゃないでしょうか。

その時きっと幸の手が触れて、思わず傘を落としてしまった。

手が触れただけで動揺して傘を落とすのはもちろん恋愛にうぶな明青だからですが、

それだけじゃないような気もします。

頭の中で漠然と結婚のことを意識した時に、生身の幸に触れて動揺した・・・。

あの傘のシーンでここまで読むのは考えすぎでしょうか・・・。[E:coldsweats01]





明青と幸が共有する母親の存在。

もう一箇所、その事実が強くあらわれたところが、

迎え火のシーンだったと思います。

このシーンも原作にほぼ同じシーンがありながら、

意味合いが全く変わってしまった部分です。

海での別れのシーンと同様に、

エピソードの順を入れ替えるとこれほど意味が変わってしまうんだ、

ということがよくわかる個所です。


原作ではこの迎え火のシーンの段階で明青はまだ自分の母親の死を知りません。

無邪気に幸にときめいている時です。

おばあが倒れたり、幸が自殺未遂をしたり、結婚を決意するのはまだずっと後。

だから原作の明青が迎えている死者の魂は、

自分の本当のおばあや子供の頃亡くなった父親や見知らぬ先祖の霊。

毎年繰り返されるウンケーの行事をしているに過ぎません。

沖縄古来の風習が好きな幸に、

沖縄らしい行事を見せてやれることが嬉しくてしかたがない感じ。

物語が一気に転がりだす直前の幸との幸せな暮らしのワンシーンです。

でも、映画ではこの直前に俊一から母の死を知らされたことにより、

迎え火と言う行事そのものが明青にとって大きな意味を持ちます。

明青は明らかに母親の霊を迎えようとしている。

あれほど待ち望んだ母親の帰郷がこんな形で果たされようとは・・・。

明青は迎え火を焚いて、まるで何かを探すように道の向こうを見つめます。

「迷わずにきたかな」

「きてるよ」

「わかるの?」

「わかる」

と、幸の問いかけに、明青ははっきりと答えます。

ここでの明青の表情は全くの無表情。

いつもの気弱げな微笑はありません。

空気の中からかすかな兆候でも何でもいいから、

母親の気配を感じようとしているかのよう。

そんな明青の手に幸はそっと手を伸ばします。



原作では死者の霊を身近に感じているのは幸のほう。

映画と同じ

「わかるの?」

「わかる」

という会話の後、

「私の、あのこも?」

という幸の一言が続きます。

この時、幸は生まれることなく死んでしまった自分の子供の魂を思っています。

原作の幸は最後の手紙で告白するまで自分の過去を全く語らないので、

この一言が明青にとって(そして読者にとって)唯一の幸を知る手がかりです。

でも、明青はその幸の不用意な一言から幸の過去に何かあったんだろうと思うものの、

あえて突っ込まず幸を見守ります。



映画館で見たときはこの原作のシーンの印象があって、

てっきり幸が

「私のあのこも?」

って言ったと思い込んでいたんですよね。

でもちゃんと見直したら全く言ってなかった・・・。

すごい思い違いですね。[E:wobbly]

本当に原作を先に読む弊害だと反省しました。

「私のあのこも?」

という言葉がない映画では、

この場面、明らかに二人は母親のことを思っています。

幸はその前の場面からずっと、

明青に対して母親のことで負い目を感じています。

母の死をいつか明青に伝えるのは自分だろうと思っていたのに、

思いもかけないところから明青はその事実を知ってしまった。

そして今、明青は今まで見たことがないくらいにショックを受けている。

幸は母親の面影を胸に、

じっと夕闇に沈んでいく道の先を見ている明青の悲しみに寄り添って、

そっと明青の手を握る。



原作では幸自身が自分の子供を思い悲しんでいます。

そしてすがるように明青の手に手を伸ばします。

明青は驚いてあわてて手を引っ込めます。

幸が握ろうとしたのは醜い右手のほうだったから。

でも幸の悲しみを感じた明青は思い直して今度は自分から幸の手を握ります。

自分がいるから大丈夫とでもいうように。

これからは幸の悲しみも自分が一緒に背負っていこうと決意を込めて。



一方、映画では明青は幸の手を振りほどきません。

この少し前のシーンで幸が明青の左手(明青の手の障害は原作は右手、映画は左手)をとるシーンがあるのと、

明青が幸の気持ちを感じているから。

もちろん、明青は幸が母親と因縁のある娘だなんて知りませんが、

幸が自分の悲しみに寄り添おうとしてくれていることは感じている。

原作のように一人の悲しみをもう一人が支えるんじゃなくて、

同じ人を思い、ともに悲しんでいる。

明青とともにこのシーンの幸もまたびっくりするほど表情がなくて、

美しい二人が夕暮れの中で無言でたたずむ姿は

薄暗い中に白いワンピースとシャツがうかびあがって絵のように美しい。

二人の悲しみが静かに共振しているのが伝わってくるようです。

そのまま二人は手を繋いで海のほうへ静かに歩き出します。

にぎやかなエイサーの踊りの横を通り過ぎるとき、

二人の間だけに流れる空気の静けさが際立ちます。



このシーン、大好きな場面の一つなのですが、

やっぱりどうしてもこの先二人がどこに行こうとしているのか思いつきません。

向こうに海が見えているから、やっぱり海のほうへ向かったのでしょうか。

でも、なんで?

うちの地元じゃ迎え火をした後は家に普通に入って御詠歌をあげるもので、

そのまま外に出て行くっていうのがものすごく違和感があるんです。

原作でも明青が家に入ろうとしていますよね。

手を繋いだまま二人が向かう方向って何かを暗示してそうな気もするし・・・。

でも、「ハゲタカ」とは違って、この作品をくわしく解釈している人ってそうないんですよね・・・。

(というか、あちこちでめちゃくちゃ気合の入った作品評や解釈をみかけるような作品ってそんなにないですよね。

単なる感想ならいっぱいあるけど)

もちろん某巨大掲示板とかコミュにもヒントは落ちてないし。

うーん、気になるぞー、

誰かいい解釈を教えてください。




この感想、あと1回くらい続きます・・・。

「カフーを待ちわびて」再見2

「カフーを待ちわびて」をDVDで見返しての感想です。

内容にめちゃくちゃ触れていますから、未見の方はお気をつけ下さい。

というより、ここのブログの常ですが、

見てないと何かいているか全く分かんないと思います。



「まわりのみんなが幸せなら俺は幸せ」

「明青さんにとってのカフーは?」

と幸に問われて、明青が答えた言葉です。

この言葉は原作にはありません。

映画は、この明青の言葉を軸に展開していきます。

でも、正直私はこの言葉がしっくりきていませんでした。

まわりのみんなが幸せになるようなこと、

明青が積極的にしようとしているとは思えなかったから。

開発問題との絡みで考えても、

まわりのみんなが賛成しているのに、

自分ひとり明確な反対理由も言わないまま反対しつづけています。

明青と周囲の人々との不協和音を感じる中でのこの言葉・・・

うーん、なんかとって付けたようだなあって思っていました。

明青という人物が実際にそういう人だろうなあと言うのは、

原作にそのものずばりの言葉はなくても伝わってきます。

幸に別れを切り出すのも幸の幸せを願ってのこと。

そのせいで自分が家やお金をなくしても、

幸さえ幸せになればいいと思う人です。

でもそういうことを自分から口に出す人なのかなあ・・・

っていうところと、言葉そのものに違和感。

明青が思う幸せってどういうことなんだろう・・・と思いながら映画を見直してみると、

見落としていた、もしくは見ていたけどそのまま流していたところに気づきました。

この言葉、もともとは散髪をしている最中に幸に突然聞かれるんですよね。

「明青さんにとってのカフーはなに?」って。

その時にしどろもどろになってなんとか答えたのが

「・・・夕凪、かな・・・」

つまり明青にとっては夕凪の状態が「みんなが幸せ」な状態。

みんなが積極的にハッピーになっている状態と言うよりは、

何も起こらず、波立たず、静かに凪いで、穏やかで、

でもその状態がじんわりと幸せに感じるような状態。

当たり前の景色、当たり前のように側にいるべき人が側にいて、

当たり前の日常が繰り返される。

あ、この景色って、エンドロールが終わった後に描かれる村の様子やん!

そう思った時、すんなりと理解ができました。

明青は「変わらない」状態を望んでいたんですね。

どうも私は「みんなが幸せなら・・・」って言葉を聞いたときに、

宮沢賢治を連想してしまって、そっちのイメージに引きずられたみたいです。

「誰かの幸せのためなら自分のこの身は何べん焼かれてもかまわない」

「銀河鉄道の夜」で出てくるさそりの火のエピソードのように、

賢治の童話には誰かの幸せのための自己犠牲というテーマが繰り返しあらわれます。

そして、賢治の言う自己犠牲は非常に積極的なものなんですよね。

命を差し出すこともいとわないと言ったような。

というより自己犠牲そのものに重きがある。

ついそのことを連想してしまったわけなのですが、

きっと明青の言う「みんなの幸せ・・・」はそうじゃない。

たぶん言い換えれば「変わらない日常が幸せ」と言いたかったんじゃないかな。

そして、そんな日常の中でまわりのみんなが笑っていられるような状態が、

明青の幸せ(カフー)なんじゃないかって思いました。






「変わらない」のがいいのか「変わる」べきなのか

原作から密かに(でも大きく)変更されているのが、

俊一の会社が進める開発計画に対する明青の態度です。

原作の明青も映画の明青も、開発計画にかたくなに反対する理由をはっきり言いません。

でも、原作の明青は俊一から母の消息を聞いたらすんなりと家を売ることを決意します。

原作では「自分がなぜ家を売りたくないか」について、

明青が本当に無自覚なんですよね。

それが俊一の指摘によって、

「自分が守りたかったのは母を待つための家だったんだ」

ということに気づく。

ここでは明青は自分が胸に抱え続けていたものに気付くことが大事なのであって、

開発そのものに対しては(あまりいい感情を持ってはないだろうけど)是とも非とも明確な意識を持っていない。

だから待つべき母はすでにこの世にいないと知って

過去ではなく、幸との未来に生きようと決めて、

明青はすんなりと家を売ることを決意します。




一方映画の明青は最後まで家を売るとは言いません。

おばあに「このやぁ(家)を売りなさい」って言われた後も、

俊一から母の死を告げられた後も、

家を売ることを認めない。

最初は物語の展開上、開発問題が曖昧になってしまったかな・・・

(この辺りは母の死を知って、幸の素性(誤解だけど)を知って、別れを決めて・・・と立て込んでる)

と思ってこの展開に不満だったのですが、

(ここを曖昧にすると明青が家を売らなかった理由(=母を待っていた)がぼやける)

見直してみるとやっぱり意識的に開発に反対している。

集会で村長さんの言葉にも首を振らないし、

賛成派に身を転じた渡を一生懸命説得しようとしている。

映画の明青は明らかに、自覚的に反対しているんです。

それは明青にとっての幸せが「変わらないこと」だから。

あの家に住み、あの村で今と同じ生活を穏やかに続けることが唯一の望み。

俊一の言う「発展」「繁栄」から生まれる幸せにはどこかうさんくささを感じている。

俊一のほうは変わらない故郷に対する焦りのような思いを、

変わらない故郷の象徴のような明青にぶつけてきます。

原作で描かれる明青と俊一の子供時代から今に至る交流の様子が大幅にカットされた映画では、

明青の「変わらない幸せ」と俊一の「変わって行く幸せ」という二つの概念が、

より明確に対立している気がします。

そして面白いことに、映画では、

最後まで家を売るとは言わなかった明青に引きずられるようにして、

俊一も会社を辞め、反対派に転じます。

原作では開発問題は物語を動かす装置として機能しているだけで、

作者は開発問題に対しての是非を明確にしていません。

大きな資本の理論にゆるゆると流されていく与那喜島を、

作者はどこか仕方ないこととして暖かく見守っているようにも思えます。

原作を読んだときには娯楽作品だからそれもありかなあ・・・とすんなり受け入れていたのですが、

でも、主人公に最後まで開発に「YES」と言わせなかった映画の制作者たちは、

原作のその部分をよしとしなかったのかなあ・・・と。

監督は処女作も沖縄を舞台にした映画だったそうで、

個人的にも何度も沖縄を訪れている大の沖縄フリークなのだそうです。

物語の展開としては大きな変更ではありませんが、

作り手の意識が表れる変更点だったんじゃないかと思いました。


この感想、まだ続きます。[E:smile]